2024年6月26日水曜日

北里柴三郎の一番弟子

                              
 八田與一(1886~1942年)は台湾の「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」(かんがい事業)、新渡戸稲造(1862~1935年)は「台湾製糖の父」。

それと同じように、いわき市渡辺町出身の高木友枝(1858~1943年)は「台湾医学衛生の父」といわれる。

高木は北里柴三郎(1853~1931年)の一番弟子だ。師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生に尽力した。

総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

長木大三『北里柴三郎とその一門』(慶應通信)が平成元(1989)年に出版された。そこに高木は載っていない。

出版の3年後、高木の遺族から資料の提供を受けて、長木は高木の章を加えた増補版を出す。

それで初めて、高木は赤痢菌を発見した志賀潔(1870~1957年)などに先んじて、「北里の高弟として筆頭に挙げるべき人」(長木)という認識に変わった。

この増補版がターニングポイントになったのではないだろうか。図書館の新着図書コーナーに、新村拓『北里柴三郎と感染症の時代――ハンセン病、ペスト、インフルエンザを中心に』(法政大学出版、2024年)=写真=があったので、即、借りた。

 読み始めるとすぐ、「北里の信頼の厚い高木友枝」というフレーズに出合った。少しオーバーな言い方をすると、北里を語ることは高木を語ることになる、そう思った。

長木の増補版が出てから32年。3年前に上山明博『北里柴三郎――感染症と闘いつづけた男』(青土社、2021年)が出版されたときにも、高木についての記述があるはずという期待をもって読んだ。やはり高木が載っていた。

今度の新村本では、第4章の「急性伝染病と衛生」で高木を詳述している。北里と高木は東京大学医学部の先輩と後輩で、北里がドイツ留学から帰国して伝染病研究所長に就くと、高木は鹿児島の病院長をやめて北里の助手になる。

この人事には衛生局後藤新平が関与していたともいわれている。というのも、後藤は高木を医学生時代から知っていたからだ。

そうしたエピソードを含めて、日清戦争終結に伴う帰還兵の臨時検疫業務に携わったこと、明治27(1894)年、広東と香港で「黒死病(ペスト)」らしい疫病が発生すると、高木の建言で北里が政府から香港へ調査に派遣されたことなどを紹介している。

 第4章の「台湾に渡った後藤新平を支えた面々」には当然、高木や新渡戸が出てくる。さらに「台湾の衛生・医育・台湾電力に尽力する高木友枝」という項目もある。

 日本の紙幣が7月3日から変わる。1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

 千円札は、実は門弟から恩師へのバトンタッチということになる。野口もまた北里の弟子の一人だった。

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