2024年6月8日土曜日

茨城の海岸線物語

                    
 「常陽藝文」の最新号(2024年6月号)は、「いばらき海岸線物語」を特集している=写真。

 江戸時代、いわき地方の年貢米は小名浜や中之作などの港から、茨城の那珂湊や千葉の銚子経由で江戸へ送られた。江戸の文化もまた逆のルートでいわき地方にもたらされた。

いわきと茨城は陸路だけでなく、海上の道でもつながっていた。今回の特集もまた、いわきとのつながりを意識しながら読んだ。

そもそも「常陽藝文」の定期購読者になったのは、茨城を知ることでいわきが見えてくることがあるからだ。

 近代詩の山村暮鳥しかり、童謡の野口雨情しかり。磐城・山崎の専称寺で修行し、のちに江戸で活躍した幕末の俳僧一具庵一具もまた、常陸と磐城地方に俳諧ネットワークを築いていた。

 茨城の海岸線は総延長190キロに及ぶという。福島県は南北に約164キロ。そのうち、いわきの海岸線は3分の1近い60キロ余を占める。市町村レベルではやはり長い。

 特集では、南端の神栖(かみす)市から北端の北茨城市まで、地域や海とのかかわり、歴史や生活文化など九つの物語を紹介している。

 「鹿島アントラーズ誕生秘話」(鹿嶋市)がある。「息づく芸術的風土」(北茨城市)がある。

後者はいわきの隣のまちの話なのでわかりやすい。岡倉天心、そして野口雨情をまくらに、北茨城の内陸に移り住んだ芸術家夫妻を取りあげている。

 興味を引いたのが二つある。一つは「海水浴の始まり『潮湯治』」(大洗町)だ。明治18(1885)年、神奈川県大磯に海水浴場が開設される。これが日本の海水浴の起源とされる。

それ以前には「潮湯治」が行われていた。大洗町でも、江戸時代、守山藩主が常陸・松川陣屋に滞在して、磯浜村西福寺で潮湯治をした、という記録が残っているそうだ。

それが近代になって海水浴場へと発展し、人気を集めるようになるのは、鉄道網の普及が大きかった。

明治28(1895)年には早くも『大洗海水浴場誌」が発行される。大洗は海水浴場の火付け役でもあったという。

いわき地方では明治36(1903)年、四倉に海水浴場が開設されたのが始まりのようだ。

大洗同様、四倉海水浴場も鉄道(常磐線)の開通によってにぎわった。なにしろ駅から歩いてすぐのところに海がある。

戦後は、中通りから海水浴専用の臨時列車が繰り出したり、平(現いわき)―永崎海水浴場を直通列車が運行したりしたという。

さてもう一つ、「漁業の父・三代芳松」(日立市)も印象に残った。芳松は茨城の漁業史上、代表的な人物だという。漁法の改良に尽くし、それが全国へと広がった。

いわき市合併時、磐城市長を務めていたのは漁業家三代義勝。義勝は日立市の漁民の子として生まれたという。

年齢的には、義勝は芳松より一世代若い。でも、日立の三代、ということでいえば、一族だったのかもしれない。いわきと茨城のつながりゆえの「思いつき」ではあるが。

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