2016年1月3日日曜日

「もしもし」の起源

 外部筆者による福島民報の「ふくしま人(びと)」(毎週土曜日掲載)は、師走の後半から<電信技術者 加藤木重教(しげのり)>に入った=写真。重教は安政4(1857)年、磐城平城下の田町で生まれ、阿武隈の山の向こうの三春で育った。柔術師範の父親が磐城平藩から三春藩に“転職”したことによる。
 三春で生まれた弟・富造は、のちに「福島県ハワイ移民の父」といわれる獣医師で、父親の旧姓である勝沼家に養子に入った。勝沼家はいわき市好間町に現存しており、同家の墓も平の長源寺にある。

 前にも書いたが、富造はアメリカ本土で大学へ通い、獣医師の資格を取り、アメリカの市民権をとった。モルモン教に入信し、やがてハワイへ渡り、一時、移民官として日本人受け入れに奔走した。『やまと新聞』の経営にも関係した。
 
 ハワイ在住の日本人や二世のための各種の慈善団体、奨学金基金、ロータリークラブの責任者や主要なメンバー、さらには『日布時事』の副社長と、日系人コミュニティの中で働き、信望も厚かったという。

 昨年(2015年)9月、いわき地域学會の市民講座として、外部講師の橋本捨五郎さん(郡山市)が「福島県移民の父・勝沼富造――父は旧磐城平藩安藤家家臣」と題して話した。富造の兄・重教についても触れた。電話の「もしもし」は重教が発案した、というエピソードが印象に残った。

「電話の第一声『もしもし』は、加藤木が考案したものといわれる」と、「ふくしま人」の1回目にも出てくる。第一声には「おいおい」「はい、よござんす」といった “前史”があるらしいが、それは、ここでは省略する。

 市民講座で橋本さんは、「申します」がやがて「申す申す」となり、「もしもし」となったと述べた。ネットにもそういう情報があふれている。「申し申し」からきている、という説もある。「申し申し」なら「もしもし」、「申す申す」なら「もすもす」となるのが自然だが、そのへんは定かではない。

 ただ、重教は2歳まで浜通り弁の世界に身をおき、以後は中通り弁を“母語”として成長した。重教になまりがあったかどうかはともかく、われわれが現に暮らしている生活圏の言語文化から生まれた「もしもし」である不思議を思い、一方で「もすもす」が電話の第一声として定着していたら……と、初夢ならぬ初妄想をしてみたのだった。

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