大正時代に入ると、詩人山村暮鳥がこの十一屋に出入りするようになる。「十一屋」への興味・関心はここから始まった。
幕末の元治元(1864)年、21歳の新島襄が函館から上海経由でアメリカへ密航・留学する。その前、彼の乗った帆船「快風丸」が江戸から函館へと東北の太平洋側を北上中、中之作に寄港する。新島は下船して、「龍燈」伝説で知られた閼伽井嶽を目指す。
「赤井嶽(閼伽井嶽)と云う名山を見物せんとて参りしが、折り悪しく途中にて烈風雷雨に逢い、漸く夕刻平城迄参りし故、遂に赤井嶽に参らず、その処に一泊せり。但し、旅舎は十一屋清蔵と云う。……」(『新島襄自伝』岩波文庫)。新島はちゃんと「十一屋清蔵」と認識し、記録した。
それより9年前の安政2(1855)年5月、「長年の疾病(しっぺい)を癒すため、藩より休暇を得て湯治のため湯本温泉に赴いた水戸藩士」がいる。小笠原貞道。彼の『磐城温泉日記』(東京国立博物館所蔵)を、いわき地域学會の先輩・小野一雄さんが解読し、補註を加えて、同学會の会報「潮流」30報(2002年12月刊)に発表した。
この3年ほど、十一屋に関して小野さんとやりとりをしている(実際には小野さんから情報をもらうだけだが)。先日、ご本人から、16年前に発表した『磐城温泉日記』の文中に「三町目土屋清蔵」とあるが、この「土屋」を「十一屋」と考えた、というメールが届いた。
小笠原は湯本温泉の旅館に滞在中、閼伽井嶽へ登り、寺に一泊して、未明(寅の刻過ぎ)に「杉の樹梢に火光」、いわゆる「龍燈」?を見る。その後下山し、平城下の「三町目土屋清蔵といふ市店に寄りて午飯を調ひ、酒など酌みて旅の労を養ひて、ここを立ち去」った。
小野さんが、この「土屋清蔵」を「十一屋清蔵」と考えたわけは――。このところ私以外にも「十一屋」関係の情報、あるいはアドバイスを求められることが少なくなかったからだろう。
旧磐城平藩士で明治の文学史に名を刻む歌僧天田愚庵(1854~1904年)がいる。その愚庵が3歳年上の郷友、実業家江正敏(ごう・まさとし=1851~1900年)について小伝を書いた。『いわき史料集成』第4冊(1990年刊)に、明治30(1897)年刊の「江正敏君伝」(写真版)が収録されている。もう遠い昔だが、小野さんが解説を書いた。
それを種本に、北海道の作家不破俊輔さんが、友人で奥さんが江正敏の血を引く福島宜慶さんと連名で、小説『坊主持ちの旅――江正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年)を書いた。作者から小野さん経由で本が送られてきた。
その延長で、今度は一見無関係と思われた幕末の水戸藩士の日記を再吟味したわけだ。
小野さんの新しい解釈に戻る――。原本のコピーを見ても、やはり「土屋」なのだが、もともと旅行の手控えなどから清書したらしく、文字が整然としている、という。つまり、土地勘のない旅人が後日、自分のメモを見ながら清書する段になって、「十一屋」だか「土屋」だか判然としなくなった。で、よくある名字に引っぱられて「土屋」と誤読・誤記した。そう推測していいのではないか。
元ブンヤとしては大いに納得できる話だ。記者はメモ帳に取材したことを書き連ねる。あとで何と書いたか判然としない文字もある。わずか1、2時間でさえそうなのだから。
これは文字が発明されて以来、現代まで絶えず繰り返されている事象ではないだろうか。古文書であれ現代の新聞であれ、誤読・誤記はつきもの、2割くらいは疑問を持って接することだ。
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