そのメンバーのひとり、知人のひいじいさん(平・本町通り三町目、「染物十一屋」の小島藤平)は、華道もたしなんだのだろうか。床の間の前に、松を飾った写真(円内は藤平本人)がある=写真。最初は盆栽かと思ったが、土と根の盛り上がりがない。生け花ならぬ“生け松”らしい。
写真の裏に「紀年/東宮殿下東北行啓/明治41年10月10日/古松挿花/小島藤平/69歳」とある。左端に「大正2年1月23日死去ス」も。これは、4年後に家族が書き加えたのだろう。裏書き中の「古松挿花」から、あらためて“生け松”であることを確信した。
俄然、興味がわいた。東宮殿下東北訪問(手元の記者ハンドブックにならって、「行啓」を「訪問」と表記)? 明治41(1908)年10月10日?
明治の東宮(皇太子)といえば、のちの大正天皇だ。大正時代の社会や文化に関心があって、その前後の時代を含めていろいろ調べている。が、大正天皇には全く興味がなかった。世間もそうなのか、ネットで検索しても情報が少ない。いわき総合図書館にも関連図書は29冊しかない。そのうちの1冊、原武史『大正天皇』(朝日選書)を読んで、やっと東北訪問の様子がわかった。
大正天皇は明治12(1879)年8月に生まれ、大正15(1926)年12月、46歳で亡くなっている。20歳で結婚すると、32歳で即位するまで12年間にわたって国内を精力的に旅行している。「病弱の天皇」のイメージとはだいぶ異なる。
東北訪問は明治41年9月9日から10月10日まで、ほぼ1カ月に及んだ。今では考えられない長旅だ。
まず、日光田母沢御用邸を出発して日本線(現JR東北本線)で白河へ。会津若松を訪ねたあと、福島から山形・秋田と日本海側を巡って青森へ至り、再び日本線で岩手・宮城を南下。10月3~8日は仙台に滞在し、9日、海岸線(現・JR常磐線)を利用して原ノ町に下車し、相馬野馬追を見学。その日は双葉郡富岡町の「郡役所」に一泊して、翌10日、海岸線で帰京――という旅程だった。(10月の野馬追とは)
平は? 町長らが駅のホームに立って列車を見送ったかもしれないが、素通りしたようだ。とはいえ、庶民にとって皇太子の来訪・通過はありがたいものだったにちがいない。明治の世になって初めて、次期天皇が庶民と間近に接するようになったのだから。
小島藤平はそれを記念して、しかも平を通過する10月10日に、鷲が飛び立つような、あるいはいのちが天に向かって伸びていくような“生け松”で東北訪問を祝った、ということなのだろう。明治の庶民の心がしのばれる写真だ。
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