すると、天明の大飢饉のあとの寛政元(1789)年に描かれた絵地図を所蔵するAさんから、「ここでつながっている」と、絵地図の写真付きでコメントをもらった。平城の外堀と、さらにその南の外堀を兼ねた新川とが、城下町の西端、土橋(今の才槌小路付近)~鍛冶町の水路でつながっていた=写真。
もう一人、若い仲間が①(土橋~鍛冶町の水路の橋は)絵地図でも太鼓橋②(幕末、片寄平蔵が新川上流の内郷白水で石炭を発見する。のちに、領内の年貢米積出港として四倉の仁井田浦に港を築く。年貢米だけでなく、石炭積出港にも利用しようとした? そのルートとして)白水―新川―夏井川―横川―仁井田浦―銚子―横浜を想定?、というコメントを寄せた。
太鼓橋は、小船が通れるように架けられたのではないか。港までの石炭運送も、馬で石炭を詰めた叺(かます)を振り分けにして運ぶより、河川交通の方が合理的ではないか。そういう視点、仮説もあり、だろう。
ほかの絵地図も見た。いわき市文化財に指定されている「正保城絵図」(個人藏)には、外堀としての新川はまだ描かれていないが、今の南町あたりを堀が東西に伸びている。
内藤家が延岡に転封後、家臣が故郷を思い出して描いた「奥州磐城平城下絵図」(個人藏=市指定文化財)には、開削された新川と南町の堀のほか、城直下の外堀から東に伸びる堀が見える。本町通りをはさんだ二つの堀は城下東側で愛谷江筋と連結している。Aさん所蔵の絵地図にも南町の堀が描かれている。
荒川禎三『明治百年史』(マルトモ書店、1966年)にこんな記述があった。「平町には下水道がなかった。新田町(紅小路)や南町通り(略)は用水堀であった。愛谷堰(江筋の勘違い?)から五丁目にひき、そこから一丁目に向けて流した。(略)雑用水はこの溝川であった。東から西へ、自然の川の流れとは正反対であった」
いろいろ情報を重ねてみると、平の城下町には堀のネットワーク(運河を兼ねていたかどうかはともかく)ができていた。
ついでに、もうひとつ。きのう、「いわきとガンダム」の話を書いたら、いろいろ貴重なコメントが届いた。あいまいだったモノゴトの輪郭がはっきりした。「いわきとガンダム」の関係がより明瞭になった。「いわきはガンダムのまち」と言ってもいいのではないか、という思いを強くした。
いずれのコメントもフェイスブックを介していただいた。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、「フェイク」を拡散・増殖させる負の面もあるが、本来は集合知による「ファクト」の共有を目指すものだろう。活字メディアでは味わえなかった、リアルタイムでの反応に感謝したい。
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