外堀は、江戸時代には定期的に浚渫(しゅんせつ)された。庶民がごみを捨てることなど考えられなかった。が、戊辰戦争で城が炎上し、あるじを失った明治維新後はごみ捨て場と化する。そのごみ捨て場も、明治30(1897)年の常磐線開通に伴う敷設計画によって、そばのお城山を切り崩した土砂で埋め立てられる。つまり、堀跡に眠るごみ、いや埋蔵文化財は平(現いわき)駅開業前の30年間に廃棄されたもの――とはっきりしている。
立会調査で発見された遺物は荷札木簡・椀・桶・箸などの木製品、陶磁器、ランプ・ガラスといった明治初期の工芸製品などだ(いわき市埋蔵文化財調査報告第127冊『平城跡―旧外堀跡の調査』2008年)。
なかに三町目・十一屋の荷札木簡がある。「岩城平三丁」「小島忠兵衛殿 行」「東京」などの文字が読める(釈読文による)=写真。明治40(1907)年に創刊された地域新聞「いはき」の広告では、十一屋の当主は「小島末蔵」。忠兵衛は末蔵の先代ということになる。
東京からの荷物とはいえ、まだ鉄道が開通する前だ。船で運ばれてきた。中之作に荷揚げされたという。出土した荷札に「海上安全」の文字が見える。「道(通)中安全」を祈願した木簡も、もちろんある。
調査報告書には、さらに興味深い記述がある。「堀内からは、調査範囲の南側に、船着き場状の土留めの柵とそれを支える杭が検出され」た。船着き場? 浚渫のための船の発着場? それとも、城下町~夏井川~太平洋へと通じる水上交通ネットワークがあった?
古代のいわきでは、夏井川下流域に磐城郡衙(ぐんが=郡役所)を中心とした水上交通ネットワークが形成されていた。古代でさえそうなら、近世にはもっと水上交通が充実・強化されていたはずだ。江戸の町がそうだったように、磐城平の城下町に“運河”があったとしても不思議ではない。
市埋蔵文化財調査報告第75冊『荒田目条里遺蹟』(2001年)に、その水上交通ネットワークのことが書かれている。「夏井川やその他の河川の船運については、中世・近世における資料や文献も、ほとんどないのが現状である。佐藤孝徳氏によれば、17世紀には夏井川上流の塩田・高萩地区まで船が上がったことが、文書により知ることができる」。塩田・高萩は阿武隈高地と接する平野の最奥部だ。
立会調査をした職員にあれこれ聞いたり、上記の文章を読んだり、仲間と議論したりしたうえでの、これは私の妄想だが――。
江戸時代になると、外堀のさらに外堀として「新川」が開削される(今は埋め立てられて「新川緑地公園」になった)。夏井川とつながっている堀は、絵図の上ではこの新川しかない。新川が運河の役割を果たしていなかったかどうか。
城直下の外堀の「船着き場状の土留めの柵」が、どうにも気になってしかたがない。
0 件のコメント:
コメントを投稿