風力発電とはまったく関係のないことだが、びっくりする情報に出合った。神楽山を水源とする江田川=背戸峨廊(せどがろ――「せとがろう」ではない)は、山をはさんで隣り合う加路川を「河川争奪」をした結果、あのような滝の連続する急流ができた、というのだ。
11年前の2007年、千葉県立中央博物館友の会が、紅葉の時期に茨城・福島浜通りの「滝めぐり」を実施した。背戸峨廊にも入渓した。そのときの計画書がネットにアップされている。河川争奪の書き込みがある地図を借用する=写真。
夏井川支流の江田川がなぜ「背戸峨廊」と呼ばれるようになったか。山をはさんだ東側を同じ支流・加路川が流れている。加路川流域の住民は山の裏を流れている川なので、江田川を「背戸の加路(セドノガロ)」と呼びならわしていた。それが詰まってセドガロになり、詩人草野心平がセドガロに「背戸峨廊」の漢字を当てた。
ところが太古、江田川が加路川の源流部を奪い取った結果、今のような奇観が生まれた。友の会計画書は、地形図からみても河川争奪は一目瞭然、なのに『いわき市史』にも現地の看板にも何も書いてない――と少し不満気だ。
地図には「争奪地点」のほかに、「風隙」という文字も書き込まれている。私は最初、これを地名と誤解した。
いわき地域学會が28年前に発行した『鮫川流域紀行』(1990年)で、初代代表幹事・故里見庫男さんが「河川争奪」について書いている。それを思い出して読んだら、「風隙」があった。「風隙」は地名ではなく、「ふうげき」と呼ぶ地形だった。河川争奪の結果、流れを持たなくなって残された谷間をいうそうだ。
それが事実だとすれば、江田川は山をはさんで加路川に並行する「裏加路川」どころか、首根っこの部分で加路川を取り込んだ「古加路川」ではないか。
近々、地域学會の仲間でもある地理学の先生と会うので、そのへんのところを聞いてみよう。どんな反応が返ってくるか楽しみだ。
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