心平が作詞した校歌は、出身地のいわきはもちろん、全国の小・中・高・大学合わせて100を超えるという。いわき市内では、心平のふるさとの小川小学校、同中学校をはじめ、わが子が通った平六小、平二中など17校が心平作詞だ。
私が最初に“心平校歌”を胸に刻んだのは平高専(現福島高専)で、だった。一番の出だしは「阿武隈に白き雲沸き/七浜の海はとゝろく……」、シメは「おゝ平高専
われらが母校/日輪は燦(さん)とかゞやく」。昭和41(1966)年のいわき市合併で「平高専」は「福島高専」に替わった。
平六小の校歌にも「石森に 白き雲浮き」と、雲が出てくる。その校歌ができるまでを追ったことがある。拙ブログ(2010年7月20日)を再録する。
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昭和28(1953)年9月24日、草野心平は平六小の校歌をつくるため、下調べにやって来た。神谷(かべや)村が平市と合併したのは昭和25年5月。村の名が消え、神谷小も平六小に改称された。それから3年余、平六小の名にふさわしい校歌を――となったのだろう。
学校のすぐ裏手を小川江筋が流れ、学校前方南の水田には立鉾鹿島神社の森が見える。地元からの要請で心平に話を伝えた、心平のいとこの平二中校長草野悟郎さんも招かれ、一緒に学校の内外を見て回り、学校の沿革を聞いた。
その晩、学校の近くにある大場家で歓迎の宴が開かれた。心平と悟郎先生、校長やPTA役員らがごちそうをつついてにぎやかに語り合った。このあと、心平は大場家に泊まらず、悟郎先生の家に行く。翌朝、悟郎先生の家にやって来た校長、PTA会長らに頼まれて色紙に何かをかく――という、よくある展開になる。
昭和26年発行の『神谷郷土史』によれば、合併当時、大場家は父子で村医・校医を務めていた。若先生の夫人はPTA副会長だった。『神谷郷土史』は最後の神谷村長、神谷市郎さんが著した。
それはさておき、『草野心平日記』を読んだ印象でいえば、いわき市内にある心平作詞の校歌のいくつかは、悟郎先生が橋渡し役になって、できた。いとこを介した依頼では断れないだろう――頼む側にはそんな期待と打算があったに違いない。要するに、悟郎先生を通せば間違いがない、ということだ。
以上のことは『神谷郷土史』の部分を除いて、「歴程」369号(草野心平追悼号)所収の悟郎先生の追悼文で知った。
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今度の「校歌展」では、心平とコンビを組んだ作曲家に興味を持った。小山清茂24校、渡辺浦人19校、伊藤翁介18校。これがベスト3だ。福島高専は小山、平二中、同六小は伊藤。この3人くらいは心平との交遊の程度、人となりなどに言及してもよかった。
もうひとつ。展示物を見ながら「白い雲」がわきたつわけを考えた。校歌という“鋳型”のなかでどう違いを出すか、工夫と苦労を重ねながらも、つい心平の子どものころの原風景=阿武隈の雲が現れる、そういうことではないのか。いずれにしても、校歌にはそれができあがるまでの“物語”が秘められている。
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