わが家の庭では6月末にニイニイゼミがささやきはじめ、やがて日中、アブラゼミとミンミンゼミが歌い、8月中旬にはツクツクボウシが鳴きだす。
日曜日(7月15日)の夜更け、寝るまで開けっぱなしにしているわが家の茶の間に、アブラゼミが飛び込んできた。翌朝、ガラス戸を開けようとしたら、枠に止まっているのでわかった=写真。触れた瞬間、戸と戸の間に落ちた。しばらくガラス戸の桟の上でギャーギャーやっていたが、そろりそろりと戸を開けて逃げ道をつくってやると、畳に落ちて庭へ飛んで行った。
庭に柿の木がある。セミたちはその木の周囲の地中で長い幼虫時代を過ごす。地上に現れると、そばの草や灌木の先っちょで羽化し、柿の木に止まって鳴き続ける。
実は、日曜日の宵にカミサンと隣に住む義弟とでセミの話になった。2人は庭の柿の木からニイニイゼミの声が聞こえるという。私には、右耳の耳鳴りと扇風機の音が重なって、認識できない。アブラゼミはニイニイゼミより音量もあるからはっきりわかるはずだが、それもまだちゃんと鳴き声としてとらえていない。
拙ブログでセミの記録を探っていたら、10年前に読んだ本の記述に出合った。すっかり忘れていた。面白いのでそれを紹介する。あるとき、柿の木に近づいてセミを見ていたら、不思議な「ささやき」を聞いた。そのわけが知りたくて図書館から本を借りてきて読んだのだった。
――橋本洽二著『セミの生活史』(誠文堂新光社、1991年)で、いろんな蝉の歌があることを知った。
誰でも知っている鳴き方、たとえばミンミンゼミの「ミーンミンミンミー」、アブラゼミの「ジージリジリジリジリ…」は、便宜的に「本鳴き」と呼んでおく、と著者はいう。その伝で、1、2回鳴くごとに転々と場所を変える「鳴き移り」、恋歌でもある「さそい鳴き」、鳴いていないときにポツンと出す「ひま鳴き」、人間につかまったときの「悲鳴」などがあるそうだ。
誰でも知っている鳴き方、たとえばミンミンゼミの「ミーンミンミンミー」、アブラゼミの「ジージリジリジリジリ…」は、便宜的に「本鳴き」と呼んでおく、と著者はいう。その伝で、1、2回鳴くごとに転々と場所を変える「鳴き移り」、恋歌でもある「さそい鳴き」、鳴いていないときにポツンと出す「ひま鳴き」、人間につかまったときの「悲鳴」などがあるそうだ。
そして、近くに寄らなければ聞こえない弱い音「つぶやき」があるという。ミンミンゼミなら「ワーンワーン」。字に書けば「ワ」音の連想でにぎやかに聞こえそうだが、私の聞いた「ささやき」が著者のいう「つぶやき」と同じなら、小さな小さな音だ。その音は超音波のように透き通っている。
両手の指で6人分ほど生きてきたが、そんな蝉の「つぶやき」に気づいたのは今度が初めてだ。なぜ今まで聞こえなかったのだろう。
たぶん、蝉と言えば「本鳴き」という先入観にとらわれてしまっていたのだ。感受性がよろいを着て歩いていては、なにも見えない、聞こえない。いくつになってもそうだが、少年のように頭をからっぽにして相手と向き合うことだろう――。
というわけで、ガラス戸の間に落ちてギャーギャーやったのは「悲鳴」だったにちがいない。にしても、明確にセミだとわかる鳴き声はこれだけ。今年(2018年)はこの猛暑がセミにも影響している?――とここまで書いた昨夕、外に出て大火事のような夕焼け空を見ていると、「ジージリジリジリジリ…」というアブラゼミの鳴き声が聞こえた。セミも日中は酷暑に耐えているのだろう。
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