昭和7(1932)年1月13日付常磐毎日新聞に、蒸しかまどの図入り広告が載る=写真。「新案特許」「本品にニセ物有」といった言葉が躍る。
蒸しかまどは広告にあるように、お椀を二つくっつけたような卵型だ。高さは1メートル弱。炭をおこして蒸しかまどに入れ、その上に研いだ米の入った羽釜をのせて上蓋をかぶせる。先端の筒から勢いよく湯気が上がったら、素早くこの筒に蓋をし、下のかまどの空気穴もふさぐ。それでふっくらとしたご飯が炊き上がる。
広告とは別に、同10(1935)年6月29日付同新聞には「平町特産の/ムシ竈製造/近年長足の進展/重要工業として町が助成」といった見出しの記事が載っている。
――平町で盛んに製造される蒸しかまどは、南は九州、北は北海道まで販路が拡張された。生産額は、昭和9年には1万2千個約4万円だったが、翌10年は製造業者も激増して倍加の見込み。蒸しかまどはわずかな木炭燃料で極めて軽便に、しかもおいしくご飯を炊けるので、家庭から歓迎されている。
昭和2、3年ごろ、初めてつくられた当時は重くて不便だった。それとは隔世の感がある。で、「この製造工業を平町特産の重要工業化すべく相當町が助成の方法を講ずべきであると一部の意見が有力化して居る」――。
見出しからは、町がいかにも助成策を決めたかのような印象を受けるが、そこまではいっていない。しかし、昭和10年当時、蒸しかまどは“外貨”を稼ぐ重要な商品と評価されるようになっていた。
平で蒸しかまどを製造していた人の話を聞いたことがある。3軒のメーカーがしのぎを削っていて、それぞれどこかに特徴があった。福島県浜通りの相双地区はおろか中通り、遠くは山形、岩手県辺りまで貨車で送ったそうだ。瓦製造業者が兼業するところもあったという。
カミサンの実家で物置を解体したとき、蒸しかまどが出てきた。夏井川渓谷の隠居へ運んで、2回ほどこれでご飯を炊いた。ガスや電気が使えないときの、あるいは自分の体とウデを使って、できるだけ自然に負荷を与えないような暮らしをしたいと考える若い人にとっては、「もうひとつの調理器具」ではある。
蒸しかまどは、平町で“発明”されたかどうかはともかく、昭和初期から高度経済成長期まで、燃料の安さと家事の簡素化で暮らしに貢献した。これもリノベーションの一例ではあるだろう。
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