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20歳前後から賢治にとりつかれ、「雨ニモマケズ」に共感と反発を抱き続けてきた。反発しながらも、賢治を“卒業”できない。「雨ニモマケズ」は自分の生き方を考えるときに、真っ先にわきにおきたいフレーズだった。<「ジブンヲカンジョウニ入レズニ>生きられるのか。生きられない、と。
それよりもっと反発したのは、<農民芸術概論・序論>にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。いよいよダメだな、オレは賢治についていけないな。
賢治の全集を二回買った。『校本宮沢賢治全集』がそろったときに、古い全集を友人の娘にプレゼントした。中学生になるかならないかだったか。娘は大学と大学院で賢治をテーマにした。
で、今度は『校本宮沢賢治全集』だ。息子・娘の世代は父・母になった。つまり、その次の世代、孫たちに賢治を伝えよう。今年(注・当時)中学生になった疑似孫がいる。小学5年か6年生のときに全集の1冊をあげた。読みこなしているようだ。
賢治について書かれた評論・エッセーなどのたぐいも手元にかなりある。“卒業”ではなく、“バトンタッチ”をしたい。少しずつ疑似孫にあげよう――と思っていたときに、東日本大震災がおきた。原発が事故を起こした。
世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実になった。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。私は時折、この言葉を思い出しながら、非常な1年を過ごした。
「雨ニモマケズ」は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」からきているのだろう。病の床に就いた賢治の、死への自覚がもたらした「雨ニモマケズ」の根源に、圧倒的な死をもたらした大災害を経験してやっと触れ得た、という思いがする。
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この思いは展覧会から6年たった今も変わらない。先日、いわき市立草野心平記念文学館の事業懇談会に出席した。ちょうど夏の企画「宮沢賢治展―賢治の宇宙
心平の天」=写真(チラシとパンフレット)=のオープニングセレモニーが終わったところに着いた。人でごった返す企画展示室をのぞいた。
同文学館では平成11(1999)年夏、開館1周年を記念して特別企画展「宮沢賢治―賢治と心平」を開催した。それに続く開館20周年記念企画だ。
この間に東日本大震災がおきた。個人的には2年前の8月、学生時代の仲間と樺太(サハリン)を訪ね、賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる白鳥湖や栄浜駅跡に立った。帰って、「銀河鉄道の夜」を読み返した。カニ・トナカイ・ラッコ……。サハリンで目にし、耳にしたモノたちが出てくる。「銀河鉄道の夜」は北の街の物語であることを実感した。
粟津則雄館長がパンフレットのあいさつのなかで書いている。「東日本大震災の時、賢治の『雨ニモマケズ』が悲しみに打ちひしがれた人々に寄り添ったことは、まぎれもない実りのひとつの形だったと言えるでしょう」。賢治は「明治三陸大津波」の年に生まれ、「昭和三陸大津波」の年に亡くなっている。それを踏まえた展覧会になったか。
前回は賢治を、賢治と心平の関係を、かなり力を入れて紹介していたことが、図録からわかる。とりわけ、「イーハトブの詩地図」が新鮮だった。そういう発見を今回も期待したが……。既視感で終わった。
安斉重夫さんの鉄の彫刻、「賢治ファンタジー」が企画展示室となりのアートパフォーミングスペースで同時開催されている。まとまった作品を見るのは初めてだ。こちらはおもしろかった。
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