この何年か、自分のために『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。文学的な解釈の前に、作品に出てくる事象・事物を調べ、注釈を増やしていくことで作品の背景が明確になってくる、と考えてのことだが、それ以上に新たな疑問がわいてきた。『洟をたらした神』はほんとうにノンフィクション作品なのか――。
せいは『洟をたらした神』の「あとがき」に書いている。これらの作品は「その時々の自分ら及び近隣の思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみです」。注釈が増えていくごとに、「生活の真実」をめぐる疑問と、ノンフィクション/フィクションのゆらぎが大きくなる。
「生活の真実」に基づく作品を、ノンフィクションとして狭くとらえるか、「事実」を越えて「真実」を描こうとした創作=フィクションとみるか。ノンフィクション作品には違いないが、フィクション的な要素もかなり入っている――というのが、現段階での私の結論だ。
今年(2019年)7月、せいの新しい評伝が刊行された。茨城県北茨城市出身の作家小沢美智恵さんが書いた『評伝
吉野せい メロスの群れ』(シングルカット社)だ=写真右。一読、ノンフィクション/フィクションのゆらぎという点で、問題意識を共有できると感じた。
作品「ダムのかげ」に、私と同じ疑問を抱いてフィクション性を探っている。「作品末には『昭和6年夏』のことと記されているが、当時の新聞等を調べても、せいの住む近隣で、その年には炭鉱事故は起きていない」「昭和4年(1929)8月には、近くの古河好間炭鉱で出水事故が起き1名殉職者が出ているが、作品のように彼が最後まで職責をつらぬき非常ベルを鳴らしつづけたという事実は確認できない」
それはそうだけど――と思いつつも、昭和4年8月の出水事故では「勇敢にも坑内に居残り、他入坑者の救助に努めた為め逃げ場を失ひ、遂ひに溺死した」(磐城新聞)人間がいる。この新聞記事には、非常ベルうんぬんの話は出てこない。しかし、他者のためにわが身を投げ出した、という点では作品と通底する。
それだけではない。新聞記事にある殉職者の名前と、「ダムのかげ」の主人公の名前を比較・検討すると、間違いなく彼が「ダムのかげ」のモデルだった、という確信が生まれる。末尾にある「昭和6年夏のこと」は、だから「事実」(史実)に矮小化されたくないためのはぐらかし、仕掛けなのではないか。
それだけではない。新聞記事にある殉職者の名前と、「ダムのかげ」の主人公の名前を比較・検討すると、間違いなく彼が「ダムのかげ」のモデルだった、という確信が生まれる。末尾にある「昭和6年夏のこと」は、だから「事実」(史実)に矮小化されたくないためのはぐらかし、仕掛けなのではないか。
「浅川藤一(あさかわ・とういち)」。これが殉職者の名前だ。「ダムのかげ」では、「尾作新八(おさく・しんぱち)」(「おさく」は「おざく」かもしれない)として出てくる。せいがモデルにしたと考える私の根拠は、苗字の語呂にある。アサカワを早口で繰り返していると、アサカー→オサカー→オサカ→オサク(オザク)に変化する。トウイチに対するシンパチ、これも「一か八か」から容易に連想できる。
実はきのう(11月16日)、いわき市文化センター視聴覚教室でいわき地域学會の第352回市民講座が開かれた。私が、「吉野せい『ダムのかげ』のモデル考」と題して話した=写真上。
たまたま同センター大ホールで、市主催の「安藤信正公生誕200年記念シンポジウム」が同時間帯に開かれた。そちらに引っ張られて10人も聴きに来れば御の字と思っていたら、常連のほかに、吉野せいファンの旧知の人間が1人、もう1人とやって来た。結局、二十数人が来てくれた。ありがたかった。
小沢さんは、ほかにも公開されていない「日記・ノート」の存在に言及し、「書くこと」についても「人間は、どんな状況に置かれても、常にそこから自分を成長させ、深める要素を見つけているのではないだろうか。せいにとってそれは『書く』ことだった」、つまり少女時代から老年まで書くことの意識は途切れることなく続いていた、とする。
問題意識を広く共有できることがわかったが、それは、小沢さんがいわき市の南隣・北茨城出身ということも関係しているのではないか。
1 件のコメント:
初めまして。吉野せいさんの『ダムのかげ』は知らないですが、そのモデルだとする昭和4年(1929)8月には、近くの古河好間炭鉱で出水事故が起き1名殉職者 浅川藤一さんの事、本日のNHKファミリー・ヒストリーでやってましたネ、ご覧になりましたか? 江川卓さんのお母様が生まれた直後養女に行きましたが、養父の方が、お亡くなりになり、また生家に戻ったそうで、浅川藤一さんの慰霊碑が紹介されてました。
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