きのう(1月14日)の新聞で、作家半藤一利さん(90)と俳優綿引勝彦さん(73)の死を知る=写真。「歴史探偵」半藤さんの本は折に触れて読んできた。特に、「戦争とメディア」に言及した部分は、自戒の意味も込めて書き写したり、コピーしたりした。
例えば、昭和6(1931)年に始まった満洲事変の「愛国報道」合戦。これを『新版 戦う石橋湛山』(東洋経済新報社、2001年)から拾うと――。
事変がおきてラジオの聴取契約者が急増する。父や兄、子らが満洲で戦っている。銃後の人間は戦場の肉親の安否が気にかかる。それでラジオを手元に置き、臨時ニュースに耳を傾ける人が増えた。
新聞は、速報性と臨場感ではラジオにかなわない。報道戦は号外戦になった。朝日と毎日が群をぬいていた。「弱小資本の報知・国民の各新聞も負けずに奮戦したが、のちの号外戦になると活字によるより写真の号外戦となったから、いきおい大資本の朝毎両紙の独占となった。ほかの社はむなしく傍観するほかはなかった」
それだけではない。「事態がどう転回するかわからない微妙な時点で、新聞と放送はひとしく日本国民に向けて満洲の権益擁護の絶対性を根拠に、事変の全面的肯定論を主張しつづけたのである。(中略)世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日・毎日の大新聞を先頭に、マスコミは争って世論の先どりに狂奔し熱心となった。軍部にとってはまことに都合のいい社会状況が自然につくられた」
「当時の日本人が新聞と放送の“愛国競争”にあおられて『挙国一致の国民』と化した事実を考えると、戦争とはまさしく国民的熱狂の産物であり、それ以外のものではないというほかはない」。メディアはお先棒をかついだだけではなかった。国民もまた、それを求めた。メディアも国民も、という視点を忘れてはいけない、と私は思っている。
号外は戦争から生まれた。幕末の「上野戦争」のときに、それらしいものが発行され、日清戦争、日露戦争とエスカレートしていく。同時に、戦争をステップにして新聞は購読者を増やし、産業としての形態をととのえる。その先に待っていたのは「国家総動員」だった。全国紙だけでなく、県紙は「1県1紙」政策のなかで戦後も生き残る基盤ができた。影響力の小さい地域紙ははじきとばされるしかなかった。
歴史に学ぶということは、このメディアによる「国民的熱狂」を組織としてどう抑えるか、個人としてはそれに参加しないためにどうするか、だろう。先の戦争では「ファクト」(事実報道)が「大本営発表」になり、「オピニオン」(主張)が「体制翼賛」にすり替わった。メディアは、過去がそうだったように未来も最後はそこに行き着く、という自覚(自戒)を持った方がいい。
半藤さんの訃報に接して、以上のことを半藤さんの「遺言」と受け止め、血肉にしないといけない、とあらためて思った。
そしてもう一人、綿引さん。父親のふるさとはいわき市平だ。去年(2020年)11月、市立草野心平記念文学館で吉野せい賞表彰式が行われた際、朝ドラ「おはなはん」のヒロインを演じた樫山文枝さんが記念講演をした。樫山さんは映画「洟をたらした神」(1978年)で主役の吉野せいを演じた。綿引さんの奥さんでもある。九品寺(平)に綿引家の墓がある。
講演のなかで「私もいずれ九品寺の墓に入るのかな」と、いわきとの縁を語っていたが、今思えば、夫との最後の時間を生きていたからこその言葉だったとわかる。
テレビの「鬼平犯科帳」では密偵の「大滝の五郎蔵」役を演じた。五郎蔵は火付盗賊改方長谷川平蔵に命を救われ、配下になる。「盗みの三ケ条」(人を殺めない・女を手込めにしない・盗まれて難儀する者には手を出さない)を守ってきた盗賊の首領らしく、鬼平ファミリーに加わってからは密偵たちの束ね役になった。同じ密偵おまさと夫婦になって平蔵を助ける。あの強面(こわもて)と相まって、五郎蔵は情に厚い人間、という印象が強く残っている。
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