2021年1月22日金曜日

「図書館の自由」とは

        
 いわき市立図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。きのう(1月21日)見たら、最初の画面の下部に次のような文章が追加されていた=写真上1。

要約する。①デジタル資料の公開の在り方を検討しているので、一部資料の公開を休止している②令和2年度内をめどに方針を決める③公開を休止している資料は、「いわき民報」と「常磐毎日新聞」④これらの資料は総合図書館の「商用データベースコーナー」での閲覧が可能――。やっと「お知らせ」が載ったか、という思いだ。

私は、詩人山村暮鳥が種をまいたいわきの詩風土に興味がある。同時に、暮鳥ネットワークと交差しながら独自の文学を生み出した、作家吉野せいの『洟をたらした神』の注釈づくりをライフワークにしている。戦前の物語は「郷土資料のページ」にある「磐城時報」や「磐城新聞」などの地域新聞を、戦後の物語は同じくデジタル化されたいわき民報を利用することで調べを進めてきた。

在宅でいわき民報と常磐毎日が読めない=利用できないとなったら、「調べる楽しみ」と「知る喜び」を奪われた、も同然。しかも、公開を停止したことに対してなんの説明もない。

ガマンができなくなって、「公共の利益」を損ねていないか、市民の「知る権利」をおびやかしていないか、ということをブログに書いた。するとコメントが入って、一覧画面の上にある検索欄に紙名 昭和28”(数字は半角英数)」などと入力すると、いわき民報、常磐毎日新聞の消えたページが検索できることを教えられた。

 しかし、このウラワザを使っても、ある時期のいわき民報は利用できないことがわかった。いよいよ疑心が膨らんだ。図書館問題に詳しい後輩のコメントを受けて、図書館から『図書館の自由を求めて』や『「読む自由」と図書館活動』『表現の自由と「図書館の自由」』を借りて読んだ=写真上2。

「図書館の自由」宣言がある。冒頭に「図書館は、基本的な人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする」とうたう。続いて「この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する」として、①図書館は資料収集の自由を有する②図書館は資料提供の自由を有する③図書館は利用者の秘密を守る④図書館はすべての検閲に反対する――ことを掲げる。

 コトは明白だ。②と④に抵触する、図書館が自分で自分の首を絞めた、と私には思われた。それもこれも説明責任を果たさないからだ、というほかない。

前に、いわき民報の1面コラム「片隅抄」にあった「ある不都合」に触れながら、「『不都合』の想像はつく。(略)図書館はしかし、1本の木を切るのに森の木を全部切ってしまった、角を矯(た)めて牛を殺してしまった――と批判されてもしかたがないのではないか」と書いた。

結論からいうと、その気持ちは変わらない。ボタンを掛け違えた。さらに、著作権者のいわき民報社に何の相談もなかった。今度のやり方については弁解の余地はない。「猛省している」と人づてに聞いた。

確かに、時代によって課題は変わる。たとえば、デジタル化された新聞や縮刷版と「忘れられる権利」との兼ね合いをどうするか。これなどはきわめて現代的な問題だろう。臭いものにふた――ではなく、そこまで踏み込んで議論を深めてもらいたい。そうでないと、今回の教訓は、図書館のスタッフが替わるごとに忘れられ、継承されなくなってしまうからだ。

繰り返すが、図書館がきちんと説明責任を果たしていれば、なんの問題もなかったのだ。

0 件のコメント: