2021年1月17日日曜日

「避病院」余話

                    
 精神科医が日本の「避病院」の歴史を本にまとめた。金川英雄『感染症と隔離の社会史――避病院の日本近代を読む』(青弓社、2020年)で、先日、子どものころの「ヒビョウイン」の記憶を重ねながら本を紹介した。

 郷土の歴史や文化を研究している知人、学校の後輩、見知らぬ人などから、ブログとフェイスブックにコメントが届いた。

ふるさとの兄からも電話がかかってきた。兄は私より3歳上で、「ヒビョウイン」を「シビョウイン」、つまり「死病院」と誤って記憶していたという。場所も、建物の様子も覚えていた。まずは、その話から――。

 ふるさとの避病院は町のはずれにあった。建物が10棟ほど並んでいた。赤痢だけでなく、肺結核などの患者も収容した。患者が亡くなると避病院の裏手で荼毘(だび)に付した。まだ土葬の時代だったが、町の人は立ち昇る煙を見て患者が亡くなったことを知った。

「ヒビョウイン」は、なまって「シビョウイン」になる。「ひ」を「し」と発音するのはなにも東京の下町だけではない。ズーズー弁の世界でも同じ。私は言葉の響きに何か恐ろしいものを感じただけだったが、兄は具体的な場所と建物、荼毘の煙を見ていたためか、死のイメージが強く刻印されたのだろう。

ただし、避病院にしては棟数が多いような気もする。慢性感染症の結核療養が主体だったのか。その場合、医師や看護師はどうかかわっていたのか、避病院との関係は……。史料が全くないので、現時点では不明とするほかない

 ブログには、同じ「団塊の世代」氏からこんなコメントが届いた。「人家から離れた松林のなかに『ヒビョウトウ』がありました。『避病院』と同じものかと。近くにいってはいけないと親からいわれていました」

「松林のなかのヒビョウトウ」といえば、大正8(1919)年、豊間村(現いわき市平豊間)に開設された福島県立結核療養所「回春園」が思い浮かぶ。同園は戦後、国立緑ケ丘病院となり、平成16(2004)年、独立行政法人国立病院機構いわき病院と改称した。その後、東日本大震災で津波の被害に遭い、同31(2019)年、小名浜野田に移転新築された。

 ちょうど3年前の平成30(2018)年1月、平・三町目のもりたか屋で、写真展「戦前に撮影されたいわき」(いわき市主催)が開かれた。中に「回春園」の写真があった=写真。これを“立体化”して、吉野せいの小説「道」を読むと理解が深まる。

「豊間村の岬には白亜の灯台が絵のようにそびえたち、広い松原の中には隔離した県立の結核療養所が病棟を並べている」

「密植された護岸の厚い松林が切れて、太い疎らな松原の中に潮風にさらされたクリーム色の建物がちらちらし出した。可なり大きい病棟の南面に、松原越しに遠浅の広い海が銀青色にしきのべられている(中略)。回春園と刻まれた石柱の門をくぐると玄関までの石畳みの歩道に高い松の枝が蔭をおとしていた」

写真を見る。施設の正面の石の門柱には、せいの文章の通り「福島縣立回春園」とある。屋根のつくりから、病棟は4棟、ほかに関連施設も――そんなことが読み取れる。

 大正元(1912)年秋、牧師で詩人の山村暮鳥が平に着任し、地域の文学青年たちとの交流が始まった。そのなかに、八代義定、高屋光家、若松せい(のちの吉野せい)たちがいた。せいと義定、光家の関係がこの“事実小説”から浮かび上がってくる。光家の生と死をテーマにした作品で、彼はここ回春園で亡くなった。

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