平市街の南方に小丘陵が連なる。山裾を縫う道路(鹿島街道)に旧バイパスが通り、併せて住宅団地が切り開かれた。
そうしてできた明治団地や自由ケ丘、郷ケ丘は、団地としては古い方だろう。新しいバイパス沿いにある平南白土の八ツ坂団地も、同じくらいに歴史がある。
旧バイパス沿いに高専の校舎と学生寮ができたころ、学校から平駅(現いわき駅)まで、丘をはさんで道路が直結した。
恩師や知人が沿線の団地に住み始めたことから、社会人になったあと、たまに団地を訪ねるようになった。明治団地の道路の狭さとわかりにくさにはいつも閉口した。
八ツ坂団地へは、しかし一度も踏み入れたことがない。知人の家が2軒ある。いずれも向こうからわが家へやって来る。
月遅れ盆の前、知人からカミサンに電話が入った。ダンシャリで出た着物や毛布がある、という。
今まではマイカーでわが家へやって来た。年齢を考えて運転免許を返上した。「では後日、荷物を引き取りに行きます」。カミサンが約束した。いつものパターンだ。
震災後はたびたびアッシー君を務めた。拙ブログによると、最初は平成23(2011)年4月だった。
――カミサンの幼なじみの家が解体されることになり、リサイクル用の着物を引き取った。私は本箱を二つもらった。冷蔵庫や洗濯機は沿岸部の知人の家に収まった。
同年7月には、双葉郡広野町にも遠征した。カミサンの知人の家で、大規模半壊の判定を受けたうえに、原発事故の影響で家族全員が避難した。たちまち空き巣に入られた。
捨てるしかないという古着を10袋ほど持ち帰り、いわきで古着のリサイクル活動を展開しているザ・ピープルに回した。
カミサンも私も、東京に本部のあるシャプラニール=市民による海外協力の会に関係している。シャプラは「ステナイ生活」を展開している。それで得た益金も支援活動に充てられる。本類などは換金してそちらに送る――。
その後も2回、小名浜へ出かけた。去年(2022年)はたまたま震災後知り合った避難者から連絡がきて、ダンシャリの品物を引き取った。こちらは住所を聞いて、ネットで場所を確認して出かけた。
八ツ坂団地の場合も、カミサンのメモに従って、場所を確かめたはずだったが……。坂の途中にあるそれらしい家にたどり着くと、どうも空き家のようだった。
カミサンのメモを持って行ったので確認する。おやっ、番地が一つ足りない。「〇✕―〇✕」と数字が四つあるのに、最後の数字を見落とした(いや、数字とは思えない筆跡だった)。それで、「〇✕―〇」と三つの数字しか打ち込まなかった。入力ミスだった。
スマホで連絡すると、坂をそのまま上がってくるようにという。坂を上がりきって平坦な場所に出ると、前方の路上に知人がいた。
段ボール4箱を受け取り、帰宅してカミサンが中身を整理した=写真。一方で私は入力ミスが頭から離れなかった。これも「75歳の壁」なのかもしれない。
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