図書館の新着図書コーナーに、清水久夫著『【改訂版】土方久功(ひじかたひさかつ)正伝』(東宣出版、2023年)があった=写真。
土方久功(1900~77年)って? 初めて知る名前だ。「彫刻家・詩人・民族誌家」と同書の冒頭で紹介されている。
同時に、土方定一(美術評論家、元神奈川県立美術館長)や土方与志(本名・久敬=ひさよし、私財を投じて築地小劇場を創設した演出家)との関係が気になった。定一とは縁がないようだが、与志はいとこの息子で幼なじみだった。
日本は第一次世界大戦が始まると、ドイツに宣戦布告をし、海軍が南洋群島のドイツ領を占領する。戦後、そのうちの赤道以北を、国際連盟の委任統治という形で支配する。
いわゆる「南進」政策の一環で、台湾、インドシナ半島あたりまではうろ覚えで承知していたが、ミクロネシア(南洋群島)となると知識はゼロに等しかった。
これまで、日本領だった台湾と樺太(サハリン)を訪れた。しかし、ミクロネシアは視野には入ってこなかった。
先行する世代、たとえばいわきの故斎藤伊知郎さんに『孤島パキン ミクロネシア慕情』(纂修堂出版、1982年)がある。
本は読んでいない。が、題名からして南洋群島の経験者らしいことがわかる。生前、いわき民報に寄稿し、やはり南洋群島のことを追想していたことを覚えている。
『土方久功正伝』の目次に、「丸木俊と中島敦」の章があった。がぜん興味がわいて、借りて読んだ。
土方は東京美術学校を出た彫刻家だ。昭和4(1929)年3月、南洋のパラオに渡航し、南洋庁の嘱託として島内の公学校で彫刻の指導をした。詩も書いた。現地の風土や人々の暮らしに魅せられ、民族誌も手掛けた。
戦後、展覧会を開くと、メディアはこぞって「日本のゴーギャン」と形容した。本人はそれを嫌っていたという。
『土方久功正伝』の著者は元美術館の学芸員だが、改訂前の旧著には「日本のゴーギャンと呼ばれた男」のサブタイトルが付いていた。改訂版ではこれを削除した。
作家の中島敦(1909~42年)は高女教諭を経て昭和16(1941)年7月、パラオに渡り、現地の国語教科書づくりに携わった。
このとき、南洋経験の長い土方と知り合い、ともにパラオ本島を一周するなどした。しかし、苛酷な風土に体が耐え切れず、日米開戦からほどない同17年3月、中島は土方と一緒に帰国する。
高専に入ったとき、国語の鷺只雄先生が中島の研究者だと知り、先生とともに中島の名前を記憶した。先生はその後、関東の大学に移った。晩年、ひょんなことからはがきをいただいた。
「原爆の図」で知られる丸木俊(1912~2000年)も、昭和15(1940)年に半年間、ヤップやパラオ諸島を旅している。土方の尽力で、現地で展覧会も開いた。このとき、丸木は裸体画を体得したということだった。土方との不思議な縁を思う。そして、南洋と戦争の結びつきも。
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