2023年9月15日金曜日

『アカシヤの大連』

          
 詩人清岡卓行(1922~2006年)は、人生の後半には小説を書いた。富岡多恵子(1935~2023年)もそうだった。

 10代後半から10年ほどは、夢中になって現代詩を読んだ。最初は「荒地」派の鮎川信夫や田村隆一、吉本隆明ら。次いで、清岡、飯島耕一、大岡信、富岡らを。

同年代の金井美恵子(1947年~)は20歳前には視野に入ってきた。彼女は昭和42(1967)年、小説「愛の生活」で太宰治賞次席になり、一連の投稿詩で現代詩手帖賞を受賞した。

 「愛の生活」は同賞主催者の筑摩書房が発行する雑誌「展望」に掲載された。それを読んで、今までにない新しい文体に引かれた。

 と同時に、文中に引用された清岡の詩行が強く印象に残った。「待ちあぐねて煙草(たばこ)に火をつけると/電車はすぐ来る。」。詩「風景」の一部で、日常の一コマをさりげなく表現している。

 以来、清岡の格調高い詩を、引かれながらも敬遠し、敬遠しながらもまた近づく、といった距離感のなかで読んできた。

 わが家に箱入りの『アカシヤの大連』(講談社、1970年)=写真=がある。清岡の妻が病死したあと、初めて書いた小説がこれだった(1969年芥川賞受賞)。

 どこかの家のダンシャリで出た本を、いつか読むかもしれないと、取っておいた。それが、本棚の片隅でほこりをかぶっていた。

 たまたま本をパラパラやると、「朝の悲しみ」という作品も入っている。「アカシヤの大連」になぜ「朝の悲しみ」が?

 主人公の「彼」(大学教師)は40代で妻を亡くした。2人の子どもはまだ成人には達していない。その子どもを抱えて、シングルファザーになった……。

老境を迎えて配偶者が亡くなり、独り暮らしの物寂しさを耳にしたばかりだったので、なんとなく気になって「朝の悲しみ」を読み始めた。

妻が病死したあと、妻の夢をよく見るようになった。朝、目覚めるとしかし、妻はいない。その悲しみを基調にした作品である。

まだ若いので、再婚の話が持ち上がる。現実の問題もある。「それは、勤め先の仕事の忙しいときや、体のぐあいが悪いときに感じる家事のどうしようもない煩わしさである。そのようなとき、彼は妻の手の有難さをしみじみと」思い出すのだった。

 「アカシヤの大連」は、その妻と出会った「ふるさと・大連」での、彼の生い立ちから青春までの思い出の記録、つまりは亡妻へのレクイエムといってもよい。それで、2作が収録されている意味が分かった。

 70代でも、40代でもたぶん、妻を亡くした人間の心情は変わらない。「2人で1人」だったのが、「ほんとうの1人」になってしまった。

そういう「不在」を、現実味をおびて想像するトシになった――。「朝の悲しみ」を通して、あらためてそんなことを思った。

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