2023年9月26日火曜日

「遠山の金さん」の父親

            
 図書館から板坂耀子編『近世紀行文集成』(葦書房、2002年)の第1巻を借りた=写真。「蝦夷篇」で、遠山景晋(かげみち)の紀行文「未曾有後記」が収められている。

 景晋は幕臣で、長崎奉行や勘定奉行を務めた。テレビドラマで有名な「遠山の金さん」の父親でもある。

寛政11(1799)年と文化2(1805)年、同4年の3回、幕命によって蝦夷地を見分している。「未曾有後記」はその2回目の旅日記という。

 ほんとうは3回目の旅日記「続未曾有後記」を読みたかったのだが(それはこのシリーズの第6巻「東北篇」に収められているのだが)、図書館には第1巻と第2巻しかない。残念といえば残念だが、しかたがない。

 いわき地域学會の第377回市民講座が先日行われた。会員の中山雅弘さんが「松井秀簡とペリー来航」と題して話した。

 秀簡は、ペリーが幕府に提出したアメリカ大統領国書の和訳を書き写した。そのへんのことは先にブログで紹介した。

 「未曾有後記」の解題によると、文化4年、蝦夷地で反乱が起こったといううわさが流れ、事実を確認するために景晋が蝦夷地へ派遣される。そのときの旅が「続未曾有後記」の題材になった。

 「続未曾有後記」に、景晋が部下とともに見たいわき地方の海岸線の様子が記されている。中山さんは秀簡が書き写した国書のほかに、このくだりを自ら翻刻して解説した。

「続未曾有後記」は受講者にとってはおそらく初めて見る資料だろう。日本近海に出没する外国船に対処するため、東北地方の東海岸を南下しながら、海防状況をチェックした。物見遊山の旅ではないにしても、景晋の性格がそうさせるのか、「紀行文学」としても読める。

 日記スタイルをとっているのは「未曾有後記」と同じである。文化4年の陰暦何月かは定かではないが、某月の12日、「上新田村大野川の落口を船わたし下新田村下神谷村夏井川の落口を舟渡し……」と続く。

「落口」は河口、「大野川」は仁井田川だろう。大野川の河口を舟で渡り、さらに夏井川の河口も船で渡った。そのあとは岬と砂浜が繰り返す、いわゆる「磐城七浜」の記述が続く。

江名村の「左の岬を三角山」といい、そこに「遠見番所」があった。遠見番所は中ノ作にもあり、この日は同地に泊まる。

翌13日は永崎村から下神白村を通り、小名浜に出る。三崎には内藤公時代、遠見番所があった。

「遠見番所再建すへ(べ)き岬なりとて県の官司出会ひて地理を語る」。小名浜は幕領、代官所の役人と再建話をしたということだろう。

そのあとさらに南下する。勿来の関に関する記述は、「未曾有後記」の解題にあるので、それを紹介する。

景晋は「歌枕の名所勿来の関を見に行きたいとは思いながらも、日程として無理で皆に迷惑をかけると判断して代わりに部下の一人に見に行かせて話を聞くことで満足」した。なかなかできた人物、しかも風流人だったことが、このエピソードからもわかる。

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