現代の死を考える。若いときは観念でしかなかった死が、年をとった今は現実となって目の前にある。
たまたま武田惇志・伊藤亜衣著『ある行旅死亡人の物語』(毎日新聞出版、2023年第4刷)=写真=を手に取ったとき、二つのことが頭をよぎった。
珍しいテーマに挑戦したな、というのが一つ。著者は共同通信大阪社会部の若い記者2人だ。
もう一つは、現代人の死は家族がいても限りなく行旅死亡に近いものになりつつある――そんな思いを抑えきれなかった。
行旅死亡人とは「病気や行き倒れ、自殺等で亡くなり、名前や住所など身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す法律用語」(同書)であり、地元自治体の首長名で、死亡人の身長・服装・発見場所などの情報を官報に布告し、引き取り手を待つ。
それを転載した民間ウェブサイトがある。「行旅死亡人データベース」で、時折、ここにアクセスしていた竹田記者が、兵庫県尼崎市で、遺体で発見された女性の所持金が3482万余円という大金だったことに着目する。
それから同僚記者を誘い、1年をかけて身元を突き止め、半生を明らかにする稀有なルポルタージュだ。
現代の死者は永眠できずにさまよっている――東日本大震災と原発事故以来、いちだんとその思いが強くなった。
理不尽にも家と土地を追われ、帰ることがかなわなくなった人々がいる。彼らの胸中には、ふるさとに残してきた死者(先祖)に対するすまなさ、墓参りも埋葬もできないいらだち、悲しさが募る。それを解消するためにやむを得ず、避難先に墓を移転するという話を聞いた。
先祖伝来の田畑と家がある農山村だけではない。土地を買ってマイホームを建て、そこで一家を構えたとしても、次の世代はよそにマイホームを建てるか、マンションを求めるかして根づいてしまう。古い住宅団地ほど過疎化・高齢化が著しい。
三世代家族が普通だった時代から核家族の時代に移り、さらにひとり親が増えただけでなく、非正規雇用が主流になる、といった厳しい社会・経済環境に変わった今、永遠の眠りに就くべき墓は求めようもない。
家族葬が増え、永代供養墓(樹木葬や合葬、納骨堂利用など)、散骨と葬送スタイルが多様化しているのも、その表れだろう。
半世紀も前、「存在の危機」という言葉が核家族化と同時に語られようになった。その延長で、遺影を、墓を通して「死者として生きる」ことが当たり前だった時代は去り、死もまた生者とは切れた孤独なもの、忘れられたものに変わりつつあるのかもしれない。
『ある行旅死亡人――』の「あとがき」にこうある。孤独死や無縁死は珍しくない現象であり、「しばしば自分が死ぬときのことを考えた。誰かがそばにいてくれるだろうか。死後、自分のことを思い出してくれる人はどれぐらいいるだろうか」。死んだとき、そしてそのあとのことを、やはり考える。
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