2023年9月20日水曜日

松井秀簡とペリー来航

        
 いわき地域学會の第377回市民講座が9月16日、いわき市文化センターで開かれた。同会の中山雅弘さんが「松井秀簡(しゅうかん)とペリー来航」と題して話した=写真。

 中山さんはちょうど1年前、「松井秀簡~非戦を貫いた泉藩士~」と題して話している。まずはそのときの拙ブログを要約・引用して、秀簡の人となりを紹介する。

――泉藩郡奉行・松井秀簡(1826~68年)は幕末の動乱期、藩論が二分する中で非戦を唱えて自刃する。

中山さんによれば、秀簡は少年のころから頭脳明晰だった。藩から派遣されて磐城平藩の学者、神林復所(1795~1880年)のもとで学んだ。

さらに、三春藩に召し抱えられた最上(さいじょう)流和算家、佐久間庸軒(1819~96年)のもとで、町見術(測量して田畑の面積を出す)や水盛術(水準を出す)などを修得した。

秀簡は三男だったが、殿様に同じ松井の「別家」として取り立てられ、小頭、徒士、徒士小頭を経て、29歳で代官(新百姓取立掛)になった。

つまり、新田開発の担当者というわけだが、これには和算の知識(年貢取り立て、田畑の面積の計算など)を買われてのことだったようだ。

新田開発に伴い、越後・蒲原郡から家族ごと農民をスカウトする事業にも取り組んだ。そして、慶応4(1868)年、41歳で郡奉行になる。

奥羽越列藩同盟と新政府軍の戦いが始まるなかで、非戦論者の秀簡は6月22日、自刃する。

背景にはなにがあったのか。秀簡は水戸の会沢正志斎に兵学を学んだ。会沢は開国論者だった。

そのため、秀簡は世界情勢にも通じていた。領民の苦労もわかっていた。幕府側の遊撃隊・純義隊が領民から軍資金を調達しようとしたことへの抗議だったか、と中山さんはいう――。

今回は、日本近海に外国船が出没するようになった江戸時代後期の海防問題を背景に、幕末のペリー来航と秀簡に焦点を当てた。

嘉永6(1853)年6月、黒船4隻が浦賀沖に現れ、ペリーがアメリカ合衆国大統領フィルモアの「国書」を幕府側に渡した。

時の老中、阿部正弘は国書ほかの和訳を作成し、諸侯に示して意見を募る。秀簡はなぜか、その和訳国書を書き写している。

藩主を介してか、あるいは別ルートでかは、定かではない。それはともかく、中山さんは秀簡自筆の国書の内容を解説した。

捕鯨船の燃料(石炭)と食料の供給、難破船の船員の保護などは、一般に知られているものだが、ペリーの肩書に注意を促した。

中山さんは国書の原文も示しながら、ペリーの肩書は「大佐」であって、議会の承認を必要とする「アドミラル」ではなかった。たまたま東インド艦隊を指揮するために「コモドア」(代将)に任命された。国書にはコモドアとある。

隣国・清朝では最高位の武官を「提督」といい、黒船船団のトップだから幕府は「水師提督」と「誤訳」したらしい。

秀簡は和訳を書き写しながら、アメリカやペリーについてどんな思いを抱いたことだろう。

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