月遅れ盆は、カミサンの実家を訪ねて焼香するだけに終わった。新盆で田村市の実家へ帰ったために、時間がなかったこともある。それで、この秋の彼岸はカミサンの実家の墓に直行した。
戦国時代は岩城公の城下町。近世になると同じ小丘陵の反対側に、今の中心市街地と重なる磐城平藩の城下町ができる。
寺のある丘陵は、字名でいうと平の大館~好間の大舘だ。カミサンの実家の寺は大舘にある。
小高い丘の墓地の北西からは好間の市街と水田、背後に小丘陵、その奥に閼伽井嶽~水石山の稜線が見える。
見晴らしがよくなったのに気づいたのは去年(2022年)の月遅れ盆。ふもとに家のある急斜面で防災工事が始まった。それで視界を遮っていた樹木が伐採された。
1年前は西方にある「好間のⅤ字谷」に見入ったが、今年は市街~丘陵~閼伽井嶽のラインが目に留まった=写真。
あれが菊竹山だな――。とんがった閼伽井嶽の手前、お腕(わん)を伏せたような緑の小丘陵の中腹で開墾生活を送った詩人がいる。山村暮鳥の盟友、三野混沌(吉野義也)。短編集『洟をたらした神』を書いた吉野せいの夫だ。
混沌がこの地で開墾生活に入ったのは大正5(1916)年。その経緯をせいが著した『暮鳥と混沌』(彌生書房、1975年)から拾うと――。
平の郊外、平窪村曲田の農家の三男に生まれた混沌は、磐城中学校を卒業後、定住の地を求めて近辺を放浪する。いよいよ壁にぶち当たり、師走に閼伽井嶽の「竜灯場」にこもる。
夜は寒さが身を刺し、やがて体がだるくなって目がかすむ。6日目。むなしい思いで下山していると、「もうろうと白く輝く湖」が目に入った。菊竹山だった。
現実には、そこはススキの原で、龍雲寺の所属地のために買い取ることはできない。混沌は小作開墾に入り、ナシの木を育て、小名浜の若松せいと結婚する。
菊竹山での開墾生活は苦闘の連続だった。『洟をたらした神』はその半世紀に及ぶ記録といってもいい。
混沌の生家(曲田)から開墾地まではどのくらいあるか、前に車で測ったことがある。およそ3キロだった。
歩くのが当たり前の大正時代。生家の曲田から見ても、菊竹山はすぐ西の小山の一角にある。人里離れたユートピアではなく、俗世間と隣り合わせの山の原だった。
では、閼伽井嶽と菊竹山の間はどうか。グーグルマップで測ると、直線で4~5キロ。大舘の墓から菊竹山までは2キロ前後だった。道なりに歩いたとしてもそう遠い距離ではない。
実は『暮鳥と混沌』の原形(本文66~92ページ)ともいうべき、せいの原稿「北風の通信」が、いわき市立草野心平記念文学館の長谷川由美さんの手で翻刻された。
『いわき市教育文化事業団研究紀要』第20号に掲載され、本人から抜き刷りの恵贈にもあずかった。
彌生書房版との表記の違いを「註」で詳細に紹介している。暑さもやわらいできたので、これからじっくり、註を手がかりにせいの内面を追ってみることにする。
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