2024年6月29日土曜日

名字が一字違っていた

                              
 長い間もやもやしながらも混同していた。「怖い絵」シリーズの作家中野京子さんと、小説「長いお別れ」を書いた中島京子さん。

 中野京子と中島京子。「中」と「京子」に引っ張られて、「怖い絵」を書いたり、「長いお別れ」を書いたり、ずいぶん多才な人なんだと思い込んでいた。

私だけではない。ネットで検索するとやはり、2人を混同していた人がいる。ということは、世の中には混同組がいっぱいいるにちがいない。

 「怖い絵」の方の京子さんは西洋文化史、特に絵画と歴史に通じている。雑誌「芸術新潮」などを介して西洋絵画に独特の光を当て、こちらの解釈の幅を広げてくれた。

 最近、『災厄の絵画史』(日経プレミアシリーズ、2022年)=写真=を読んだ。カミサンが移動図書館「いわき号」から借りた中にあった。

 大洪水、古代戦争・天変地異、中世の疫病、宗教戦争、大火、ペスト、梅毒、天然痘、コレラ、ジャガイモ飢饉、結核、スペイン風邪。

これら人類を襲った災厄の歴史的な背景を、絵画を介して取り上げている。そして、最後の最後に、世界的に流行した新型コロナウイルスに触れて、「コロナ・パンデミックを、現代の画家たちははたしてどのように描くのであろうか……?」と結ぶ。

自分の人生に降りかかった「災厄」を思い出しながら読んだ。小学2年生になったばかりのときに起きた、ふるさとの一筋町の大火事。わが家も焼け落ち、初めて避難生活を余儀なくされた。

それから半世紀後の東日本大震災と原発事故。家は残ったが、原発事故のために10日近く、人生二度目の避難生活を経験した。

この災厄を思い出しているなかで、カミサンとあることわざの話になった。「いつまでもあると思うな親と金」には続きがあるという。

その続きとは、「ないと思うな運と災難」。災難はすなわち災厄。災厄と同時に、運=希望の元もあるのだとフォローしている。人生は、世間はだから面白い。

京子さんの話に戻る。『災厄の絵画史』を読んだとき、初めて「あれっ」となった。もう一人の京子さんが書いた『長いお別れ』を読んで2カ月もたっていない。「中野」と「中島」の違いに、つまり京子は京子でも別人であることにやっと思いが至った。

「長いお別れ」とは認知症のことだった。アメリカでは「ディメンシア」(認知症)を「ロンググッドバイ」(長いお別れ)ともいう。そのワケは「少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」だそうだ。

中野京子も、中島京子も、どちらも読んで面白い作家だ。この際、「中野中島京子」と覚えておくことにしよう。本を手にしたとき、どちらの京子さんかすぐわかるから。

2024年6月27日木曜日

クチナシの花

                    
 慢性の不整脈を抑える薬のほかに、血栓を防ぐための抗凝固薬を飲んでいる。そのせいか、どことはわからないが出血があって貧血気味らしい。

 前にも書いたが、血栓による脳卒中と、抗凝固薬による出血のリスクを同時に減らすため、カテーテルによる「左心耳閉鎖術」を受けることにした。

心臓にも耳があることを初めて知った。心臓由来の血栓の90%は左心耳で形成される。左心耳閉鎖術は抗凝固薬の代替療法だという。

 そのための準備が続く。手帳に書き込まれた会議や行事の予定日を避け、病院側のスケジュールを照合しながら、検査日を決める。

 「左心耳閉鎖術」を提案されて以来、自分の心と世の中の動きとに、ちょっとしたズレが起きているような感じになってきた。

 寝ても覚めても、というわけではない。が、やはり「入院」「手術」といった言葉が日々の暮らしの合間に浮かび上がる。

 それもあってだろう、今年(2024年)は夏至が6月21日であることをすっかり忘れていた。

いつもは事前に確かめてその日を待つのだが、新聞に躍る文字を見てうめいた。あれ、夏至になったんだ――。

 梅雨入りもそうだ。東北地方(南部と北部)は6月23日だった。南部については、平年より11日、昨年より14日遅い。

 梅雨前なのに猛暑が続く、といったニュースには接しても、東北地方の梅雨入りは夕方にテレビが報じるまで知らなかった。

 日曜日に梅雨に入ったと思ったら、いわき地方の内陸部(山田町)では月・火曜日と真夏日が続いた。わが家の茶の間も連日、30度を超えて、人間がいる場所ではなくなりつつある。

 6月16日の「父の日」に合わせて、社会人になった「孫」の母親からプレゼントをもらった。

「熱中症にならないように」。花火の柄の薄手の上下で、着ると軽い。外出するときには、この花火柄の半そでシャツをはおるか。

 梅雨や夏至、父の日のプレゼントなどはすぐブログに反映させたものだが、今年はどうもエンジンのかかりが悪い。

 気持ちに余裕がなくなっているのだろう。それを思い知ったのは、早朝、玄関を開けて新聞を取り込んだときだ。

 庭の緑の一角に、前日まではなかった白い花が一輪咲いていた=写真。クチナシの花だ。

 クチナシは7月の花。今はまだ6月の下旬だ。ちょっと早い。そう思った瞬間に、自分の心が世の中の動き、いや自然の移り行きと「連動」していないことに気づいた。

 世の中の動きには、身近な区内会や所属する団体の仕事も含まれる。これは相手があることなので、自分ではコントロールができない。

 それをこなしながら「手術」に備えるといっても、心の余裕が必要だ。張りつめていては夏至も、梅雨入りも視野に入ってこない。

クチナシの花はそのことを教えてくれているようだった。(というわけで、単に原稿を書く時間がなくてブログを休む日があるかもしれません)

2024年6月26日水曜日

北里柴三郎の一番弟子

                              
 八田與一(1886~1942年)は台湾の「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」(かんがい事業)、新渡戸稲造(1862~1935年)は「台湾製糖の父」。

それと同じように、いわき市渡辺町出身の高木友枝(1858~1943年)は「台湾医学衛生の父」といわれる。

高木は北里柴三郎(1853~1931年)の一番弟子だ。師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生に尽力した。

総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

長木大三『北里柴三郎とその一門』(慶應通信)が平成元(1989)年に出版された。そこに高木は載っていない。

出版の3年後、高木の遺族から資料の提供を受けて、長木は高木の章を加えた増補版を出す。

それで初めて、高木は赤痢菌を発見した志賀潔(1870~1957年)などに先んじて、「北里の高弟として筆頭に挙げるべき人」(長木)という認識に変わった。

この増補版がターニングポイントになったのではないだろうか。図書館の新着図書コーナーに、新村拓『北里柴三郎と感染症の時代――ハンセン病、ペスト、インフルエンザを中心に』(法政大学出版、2024年)=写真=があったので、即、借りた。

 読み始めるとすぐ、「北里の信頼の厚い高木友枝」というフレーズに出合った。少しオーバーな言い方をすると、北里を語ることは高木を語ることになる、そう思った。

長木の増補版が出てから32年。3年前に上山明博『北里柴三郎――感染症と闘いつづけた男』(青土社、2021年)が出版されたときにも、高木についての記述があるはずという期待をもって読んだ。やはり高木が載っていた。

今度の新村本では、第4章の「急性伝染病と衛生」で高木を詳述している。北里と高木は東京大学医学部の先輩と後輩で、北里がドイツ留学から帰国して伝染病研究所長に就くと、高木は鹿児島の病院長をやめて北里の助手になる。

この人事には衛生局後藤新平が関与していたともいわれている。というのも、後藤は高木を医学生時代から知っていたからだ。

そうしたエピソードを含めて、日清戦争終結に伴う帰還兵の臨時検疫業務に携わったこと、明治27(1894)年、広東と香港で「黒死病(ペスト)」らしい疫病が発生すると、高木の建言で北里が政府から香港へ調査に派遣されたことなどを紹介している。

 第4章の「台湾に渡った後藤新平を支えた面々」には当然、高木や新渡戸が出てくる。さらに「台湾の衛生・医育・台湾電力に尽力する高木友枝」という項目もある。

 日本の紙幣が7月3日から変わる。1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

 千円札は、実は門弟から恩師へのバトンタッチということになる。野口もまた北里の弟子の一人だった。

2024年6月25日火曜日

「私のふるさと」実地調査

                      
 いわき市教育文化事業団の研究紀要第21号(令和6年3月29日発行)をいただいた。

 自分の興味・関心からいうと、やはり文学に目がいく。渡辺芳一さんの「草野天平『私のふるさと』をめぐって――空中写真をもとにした草野杏平氏への聞き書き」を真っ先に読んだ。

 草野天平は草野心平の弟、草野杏平氏は天平の長男だ。天平も心平同様、詩を書いた。

 病気で妻を失った天平は、太平洋戦争末期、わが子を連れてふるさとの上小川村へ帰郷する。心平一家も終戦後、中国から引き揚げてくる。

 天平は戦後、比叡山に居住し、そこで生を終えた。「私のふるさと」は天平の絶筆になった(天平の口述を、再婚した妻の梅乃が筆記)。

昔、といっても東日本大震災の直前だが、この随筆をもとにしゃべったことがある。そのときのブログを中心に振り返る。

 天平の「生誕101年」の前日、平成23(2011)年2月27日午後、いわき市小川町の草野心平生家で「草野天平の集い」が開かれた。

当時、いわき市立草野心平記念文学館の学芸員だった渡辺芳一さんから頼まれて、「天平の作品とふるさと」というテーマでおしゃべりをした。

天平は「歩く人」という視点から話した。息子の杏平氏もお見えになったが、ご本人にとっては当たり前の父親の姿だったろう。

心平の「上小川村」の詩にある「ブリキ屋のとなりは下駄屋。下駄屋のとなりは……」の町並みの描写、これを実証したらおもしろい。

というのは毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、国道399号の中島バイパスを利用する。帰りは上小川の旧道を通る。

旧道沿いは一筋町で、心平の生家がある。ブリキ屋はどこ、下駄屋はどこ……と家並みをチェックしながら過ぎる。

渡辺さんの今度の論考もたぶん目的は同じ。昭和22(1947)年に米軍が撮影した空からの写真をもとに=写真、杏平氏とともに現地調査をし、杏平氏の記憶を重ねて、心平および天平の作品に出てくる建物や場所などを特定していった。

グーグルアースの写真と照合すれば、今と昔の比較ができる。そうすることで、私自身、当面の疑問が解けた。

旧道の集落の南、水田地帯に「新川という沼」や「夏井川に繋がる小川」がある。杏平氏はこの沼(大小二つあった)で泳ぎを覚えた。小さい沼は釣り専門だったという。

この小川はもしかして、「私のふるさと」に出てくる「裏山の方へ行くとシューベルトの『鱒』を思はせる様な清らかに澄んだ流れもあります」、これではないか。

二ツ箭山から発する下田川が集落の西のはずれを南下し、水田地帯を東進しながら、やがて夏井川に合流する。小川とはこの下田川のことだろう。

そして、米軍の空撮にはその小川(下田川)の南側に、東西に長い沼があった。たぶん、中島バイパス、そしてコンビニのあるあたりがそうではないかと見当をつけているのだが、どうだろう。

2024年6月24日月曜日

紫色の花

                              
 食べる楽しみだけではない。見る楽しみもある。薄紫色のアーティチョークの花はその一つ。

 このところ毎年、6月後半になると後輩からアーティチョークが届く。つぼみ、といってもソフトボール大だ。

食べるには、先端がとがって硬い皮をむいていく。花になる部分をえぐると、直径5センチほどのおちょこの底くらいの「花托」が現れる。コーヒーや紅茶でいえば、「受け皿」の真ん中、それが食用部分だ。

今年(2024年)は花を咲かせ始めたアーティチョークをもらった。ヒマワリやアザミと同じキク科の花である。色からいうとアザミに近い。

アーティチョークは和名がチョウセンアザミ。「異国のアザミ」といったニュアンスだそうだが、花がアザミに似ているところからその名が付いたか。

日をおかずに、後輩がまた桃色がかった大きな紫色の花と「ニンニク」を持って来た。ジャンボニンニクだという。

花はアリウム・ギガンチウムに似ている。アリウム・ギガンチウムについては前に一度、その球状の花に引かれて調べたことがある。

ネギやニンニクの仲間で、花茎の長い大型種は切り花に利用される。球状の花は直径が10センチ以上だという。

このアリウム・ギガンチウムに似たソフトボール大の花を床の間に飾ったあと=写真、ネットでジャンボニンニクについて調べた。

背が高く、広く平らな葉はリーキ(ネギの一種)に似る。しかし、鱗茎はニンニクに似て、それよりはるかに大きい。ジャンボニンニクと呼ばれるのはそのためだが、ニンニクとは別種だという。

刺激は少なくてマイルド、スープやサラダなどに利用される。煮込み料理には向いているが、生食はあまりよろしくない(まずい?)そうだ。

ジャンボニンニクが届いた翌日、今度はNHKの「あしたが変わるトリセツショー」でニンニクを取り上げていた。

カレーや豚汁などにニンニクを使うと、「うまみが増す」、あるいは「味が決まる」という。それはアリインというコク味物質のおかげだった。

90度以上のお湯にスライスしたニンニクを入れると、アリインが抽出される。このアリインたっぷりの「ニンニク水」が料理のうまみとコクを引き立てる。

つまり、「ニンニク水」そのものがダシになる。しかも、料理の味や香りを邪魔することがほとんどない。

ジャンボニンニクとは関係のない話しながら、ニンニクがらみの番組なので、つい最後まで見た。

むろんニンニクではないので、ジャンボニンニクから「ニンニク水」をつくることはできない。が、あらためてネギの仲間の多様さには驚かされた。

2024年6月22日土曜日

ネギの種選り

                      
 夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギを栽培している。今年(2024年)のネギ苗はどうやら養生に失敗した。早春に追肥を怠った。草引きも手を抜いた。たぶんそのせいで育ちが悪い。

いつもだと5~6月には300本以上を定植する。ところが今年は、定植できるのは20~30本だろうか。

たとえば、2021年はこんな具合だった。立派に育って、一気に定植するには時間が足りない。

溝は4列。そこに35本。翌週30本。平日にも出かけて、結果的には5月末までに400本ほどを定植した。

それからが本番で、2020年の場合は300本ほどを植えたのに、ちゃんと育ったのは半分ほどだった。おおかたはネキリムシに食害された。

そのために、というわけではないが、苗床にもネギを残しておく。いい具合にすき間ができたら土を盛っていく。これも夏の食材になる。 

ネギの定植と収穫には目安がある。わが生活圏は夏井川下流の氾濫原だ。堤防沿いの畑では、砂質土壌を生かしてネギの栽培が行われている。

堤防を行き来しながら、河川敷の自然の移り行きを、人間が住んでいる堤内ではネギの畑の1年を観察する。

冬に収穫がすんでなにもなくなった畑に、6月になると溝ができて、ネギ苗が定植される。それを渓谷の隠居で行う「ネギ仕事」の参考にする。

最初は溝、やがて追肥と盛り土を繰り返して高いうねにする。晩秋から冬に収穫し、同時に採種用のネギを越冬させると、春にはネギ坊主ができる。

それとは別に10月10日ごろ、畳1枚分くらいの苗床に種をまく。越冬して春になると、この苗が育つ。

定植と採種がほぼ同時にくる。まずはネギ坊主を観察し、黒い種が見えるようになると一気に収穫する。

今年は6月9日にネギ坊主を切り取り、我が家へ持ち帰って、軒下で陰干しをしている。ときどき、ネギ坊主をたたいたり、もんだりしてやると、黒い種が下にたまる=写真。

ここから殻と砂やごみを取り除けばいい。とにかく6月中に種を確保して秋の種まき時期まで冷蔵庫にしまっておく。7月には持ち越さない。これだけを心がける。

ネギ坊主をカットした古いネギは、皮をむくと「分けつ」して新しいネギを抱えている。古いネギはすでに役目を終えているので、新しいネギから切り離して畑の土に返す。

新しいネギは溝に植え戻す。これが30本ほどあるだろうか。定植可能な苗と合わせれば、今年は50本程度しか栽培できない。

それでもいい。半分採種用に残せば、来年はまた種が確保できる。そうして調整しながらネギの栽培を続ける。

原発事故に負けてたまるか――。2011年以後、全面除染で表土がはぎとられたあとも、三春ネギの種だけは絶やさずにきた。「負けてたまるか」だけをエネルギーにして。

2024年6月21日金曜日

テレビでラジオ体操

                   
 たまたま正午前に昼食をとりながらテレビ(NHK)を見ていたら、体操の時間になった。

テレビ体操? 違う。聞き覚えのある音楽と手足の動かし方を指導するアナウンスが流れてきた。ラジオ体操第1だ。

 テレビでラジオ体操をやるのか! 食事を終えたカミサンがアナウンスに合わせて体操を始めた=写真。私も座ったまま上体を動かした。

 テレビの向こう側にはスポーツウェア姿の女性が3人いる。1人はいすに座っている。座っていてもできますよ、というサインだろう。

 足が衰えてずっと立っていられなくても、車いすを必要としていても、座ったままで上体を動かすことはできる。そんな思いが読み取れる。

 震災前に早朝と夕方、散歩をするのを日課にしていた。国道を横切り、夏井川の堤防に出て、ただただ風景をながめながら歩き続ける。

 朝は家を出るとほどなく6時半になる。すると近所の民家の玄関前で、老夫婦がラジオ体操をやっている。雨で散歩を休んだ日以外は、毎朝、目撃した。

 学校の夏休みには、少し離れたスーパーの駐車場で、やはり6時半から小学生が集まってラジオ体操をした。私らも小学校の夏休みのときには、小学校の校庭に集合してラジオ体操をした。

昔も今も同じ歌で始まる。「あたらしい朝がきた/希望の朝だ/……」。私らが子どものときは、ラジオで体操を指導するのは主に紅林(くればやし)武男という人だった。

「ラジオ体操の歌」だけではない。体操そのものも全く変わっていない。はやりすたりがない。これだけは75歳も、50歳も、15歳も一緒に体を動かすことができる。

別の言い方をすると、後期高齢者になっても、小学生のときに体を使って覚えた動きはすぐ思いだす。

地区の球技大会でも開会式のあとに、準備運動として参加者と役員がラジオ体操第1をやる。

急に体を動かすものだから、体操をしているうちに肩が重くなったり、足がグラグラしたりはする。が、できない人はまずいない。

早朝散歩で老夫婦のラジオ体操を目撃したころから、いずれラジオ体操だけが体を動かす最後の希望になるのでは――という予感を抱くようになった。

75歳を過ぎた今はまさにその通り、という思いが強い。それこそリハビリ体操としての一面もある。

実は、6時半になったらラジオをかけるか、なんてことをときどき考えるようになってはいた。

早朝の習慣として、ついテレビをつけてしまう。6時半になっても体を動かすことはしない。

テレビでも6時半からラジオ体操をやると、茶の間でも体を動かす年寄りが増えるのではないか。

ラジオ体操は、地域を超え、世代を超え、時代を超えて日本を一つにする最強のコンテンツ(番組)――そんなことを思いながら、しばし子ども時代に戻っていた。

2024年6月20日木曜日

正書法とは

                            
 図書館の新着図書コーナーに、今野真二『日本語と漢字――正書法がないことばの歴史』(岩波新書、2024年)があった=写真。

正書法とはなつかしい。それが、日本語にはない? なぜ? さっそく借りて読み始めた。

 地域新聞社に入ると渡される「辞書」がある。共同通信社が発行している『記者ハンドブック 新聞用字用語集』だ。

 そのハンドブックに従ってニュース原稿を書く。内閣告示による当用漢字(使える漢字)、現代仮名遣い、送り仮名の付け方のほか、用事用語集、日時・地名・数字の書き方などが網羅されている。

 広辞苑よりは記者ハンドブック――。ハンドブックを開いては表記の仕方を確かめ、確かめしているうちに、ニュース原稿の「正書法」が身に付いてくる。

 大手新聞社にもハンドブックがある。細部には異なるところがあるとしても、内閣告示を踏まえ、日本新聞協会用語懇談会の基準を参考にしている点では共通している。

 で、正書法に従って文章を書いてきたと思っていた人間には、「正書法がない」というサブタイトルが気になった。

 そのワケは? たとえば、英語の「心」は「heart」と書く。5つのローマ字をこの順に書かないと、間違ったつづりになる。つまり、文字化の仕方が一つしかない。これが「正書法がある」ということだという。

 日本語はどうか。「心」「こころ」「ココロ」と、少なくとも三つの文字化の仕方がある。文字化の仕方が一つではないから、「正書法がないことば」ということになるそうだ。

 日本語の文字は実際、漢字と平仮名、片仮名の組み合わせによってできている。その歴史的経緯が語られる。

 朝鮮半島を経由して、日本に漢字文化がもたらされる。『古事記』『日本書紀』『万葉集』が成った8世紀の時点では、「漢字によって日本語を文字化する」ことが一つの到達点をみる。

 その漢字から仮名が生み出されるのが9世紀末ごろ。『万葉集』が成った8世紀から250年ほど後のことだという。

 そうした歴史的な変遷を経て、寛弘5(1008)年には、部分的ながら紫式部の『源氏物語』が書かれていたらしい。

 『源氏物語』には『史記』や『白氏文集』などの一部が、漢文ではないかたちで引用されている。

このころには、すでに漢文を訓読し、日本語文として書き下すことが行われていたことが推測されるという。

 ここまで読んできて、日曜日の夜を迎えた。毎週、大河ドラマ「光る君へ」を見る。今回も、中国人(宋の見習い医師)との交流が描かれていた。

交流というよりは恋愛だろう。しかしそれとは別に、主人公である「まひろ」の中国語に関する興味・関心がすごい。つまりは知的好奇心の高さだ。

 手元には読みかけの新書。そこに出てくる源氏物語に関する文章を思い浮かべながら、日本語はもちろん、中国語を、漢字をどん欲に吸収し、やがては「和文」としての物語をつくりあげる作家・紫式部――そんなイメージが頭に浮かんだ。

2024年6月19日水曜日

子ども科学電話相談

                            
 きのう(6月18日)紹介したアナグマ?と違って、サギはどこにでもいる。しかし、写真に撮りやすいところは決まっている。平・中平窪の水田地帯だ。

 6月16日の日曜日は、アオサギをはさんでシラサギが3羽立ち、頭上にも1羽が飛んでいた=写真。

 シラサギといってもダイサギ、チュウサギ、コサギがいる。アオサギとの比較からコサギではないが、ダイかチュウかは遠すぎてわからなかった(たぶんダイサギ)。

 そのあと、小川町・高崎の県道でアナグマと思われる動物を写真に収めた。渓谷の隠居で休んでいると、今度はラジオが馬の心臓の話をしていた。

 「子ども科学電話相談」だった。回答者は旭山動物園の元園長小菅正夫さん。どんな質問かはわからなかったが、馬の心臓には心房と心室があるという。

 「心房は血液が戻るところ、心室は血液が出ていくところ」。そうか、ならば人間の心臓も同じだろう、

病院でドクターから心房細動と脳卒中の話を聞いたばかりだったので、心房がどういうものか、少しわかった気がした。

実は子どものころから「不整脈」があるといわれてきた。慢性なので手術うんぬんのレベルではないが、東日本大震災のときに少し症状が進んだ。

 今は心臓の働きを正常にする薬と、血栓を防ぐための抗凝固薬を飲んでいる。抗凝固薬は、いわゆる血液サラサラの薬だが、出血のリスクもある。

震災翌年の暮れ、原因のよくわからない貧血症状が出た。2階に上がるだけで息が切れ、めまいがした。

年明け後に胃カメラをのみ、大腸も調べた。血液をサラサラにする薬のせいで消化器官からじわじわ出血したのが原因かもしれないということだった。新たに鉄分補給が加わった。

それから12年。めまいや動悸はない。が、定期検査の延長で2年ぶりに胃カメラをのみ、大腸の内視鏡検査を受けた。

消化器に大きな問題はなかった。それで終わりと思ったら、今度は循環器科から連絡がきた。

もともと不整脈と薬からきている症状なので、循環器科としての見立てが本筋ではある。

抗凝固薬は脳卒中のリスクを低減するのに有効だが、出血のリスクが高い場合は、飲み続けるわけにはいかない。

その両方のリスクを低減する手術法があるという。血栓の90%以上は左心耳で形成される。それを抑えるために開発されたカテーテル利用の「左心耳閉鎖術」だ。年をとっていることもあって、ドクターがこれを提案した。

手術そのものは1時間程度、3泊4日程度の入院で、手術翌日から歩いてもらう、といった説明だった。提案を受けて夫婦で話し合い、手術を受けることにした。

あとは病院とこちらの予定を突き合わせながら、事前の検査日などを詰めていく。脳卒中と出血のリスクを減らして〇を楽しんでください――。

✕は、片耳が難聴気味なのでよく聞き取れなかった。が、どうも「余生」というふうに聞こえた。余生を楽しむための予防策と受け止めることにした。

2024年6月18日火曜日

アナグマ?を目撃

         
 毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行く。ちっぽけな畑だが、そこで土いじりをする。それが一番。

同時に、行くたびになにか発見がある。そこまでの道行きを含めて、1週間前とは違った変化が見える。それを知るのも楽しい。

 6月16日の朝9時半過ぎ、渓谷の手前、小川町・高崎地内で、前方右手の崖際をネコのような動物が歩いていた。

 車が近づいても動じない。止めてパチリとやった=写真。タヌキにしては体の色が白っぽい。アナグマだろうか。

 人間は車に乗っているので、向こうからはよく見えない。それでのんびりしているのか。あるいは、そもそも人間をあまり恐れないのか。どちらにしても、生きた動物に遭遇し、写真が撮れたことで少し興奮した。

 渓谷の隠居へ通い始めて30年近くになる。街なかと違って周りは大自然だ。人間の営みは自然の営みの一部にすぎない。

 イノシシこそ日中から動き回るようなことはないが、昼間、堂々とタヌキが対岸の森から、水力発電所のつり橋を渡ってやって来る(2009年12月)。

 隠居の庭に木のテーブルがある。そこで一服していると、足元を動き回る小動物がいた。ヒミズだった(2010年10月)。

 渓谷の名所・籠場(かごば)の滝の下流に、左岸から本流の夏井川へと落下している滝がある。

渓谷一の隘路(あいろ)で交通の便を確保するために橋が架かっている。山辺(やまべ)沢という。その森へ入ったとき、道を横切るリスを見た(2009年1月)。

これらの目撃録はブログに残っている。そのなかからタヌキの記録を抜粋する。

――朝10時ごろ、いつものように対岸の森を巡ることにして、隠居の近くに架かる吊り橋を渡ろうとしたら、向こうからとことこやって来る動物がいる。

タヌキ? こんな昼間にもタヌキは歩き回るのか。紅葉シーズンが過ぎた今は、日中も森閑としている。そんなところではタヌキも昼間、安心して出歩くのだろうか。
 吊り橋の手前にある小屋の陰にかがみこみ、狙撃兵よろしくタヌキがカメラの写程距離に入るのを待った。

待ったのはいいが、最後の最後に1~2秒早く「カシャッ」とやってしまった。撮れたのはたった2コマ。

1コマは、通せんぼの柵の標識に顔が隠れていた。もう1コマは、シャッター音に気づいて吊り橋のたもとから左折してヤブに消える後ろ姿がぼんやり写っているだけだった――。

交通事故の犠牲になって、路上に横たわっている小動物は街でもたくさん見た。しかし、生きた動物を目撃するのはめったにない。

鳥類とヘビ以外では、原発避難中の富岡町内でイノシシの親子を目撃した。もしかしたら、それ以来のアライグマ?目撃だったか。

そうそう冬眠中のヤマネを捕獲したといって、渓谷の住民から丸まった状態の小動物を見せられたことがある。それもブログに書いた。

ロードキルといった「死物学」にも触れている。が、やはり生きた動物の「生物学」の方が心は躍る。

2024年6月17日月曜日

夕方に造網し朝には撤収

                      
 このところワケがあって晩酌の量を半分にしている。ブログの下書きをつくりながら、チビリチビリ2時間近くやっていたのが、1時間で終えるようにした。

 年金生活者、というよりは年寄りの習性で、晩酌を始める時間が少しずつ早まってきた。

私が駆け出し記者のころ、職場に酒好きの大先輩がいた。記者経験はない。元は地元企業の広報担当で、定年退職後、「書く仕事」を続けるために再就職をした。

若いころは「文学青年」だったとかで、街で飲んだ勢いでお宅までついて行き、また飲み続けて泊まったこともある。

そんな付き合いのなかで知った習慣だ。年々、晩酌の時間が早くなっている。大相撲があると、休日は夕方の4時からテレビをつけて飲む――

それからおよそ半世紀。後期高齢者になった今は、大相撲があると、5時過ぎには晩酌を始める。

大先輩の顔を思い出しながら、焼酎をなめては原稿の下書きをつくったり、取り組みを見たり……。

ところが、相撲がなくても5時半になると、体が動く。自分でさっさと準備をすませて始める。夏至が近い今は、まだ明るい6時半には晩酌が終わる。

歯が弱ってきた自覚があるので、朝だけなく、夜も磨くようになった。冬場と違って、7時になっても外はほんのり明るい。

庭に出て歯を磨くと、時間が時間だけに少し不思議な感覚になる。そのなかで知った生きものの動きだ。

クモが空中に網を掛けていた。柿の木とフヨウの木だけでなく、そばの自動車にも支点を設けて、外側から中心へと時計回りに網をひり出しては、放射状に伸びた糸にくっつけていく。

歯ブラシを動かしたり、はずしたりしながら見続けること30分。中心近くまで網目が出来上がってきたとみるや、急に中心に陣取って動かなくなった。造網が完成したのだろう。

夜に網を張るのはオニグモにちがいない。しかも、朝になると張った網を撤収する。翌朝確かめると、網は消えていた。

ウィキペディアによれば、オニグモは大きな垂直の円網を張る。最初は比較的低いところに、成長するにしたがって高いところに網をかける。昼は網をたたんで物陰にひそんでいるのだとか。

3日ほど連続して、庭で晩酌後の歯磨きをしながら、オニグモの造網作業を観察した。

最初の2日間は、網は茶の間のある家の方角、つまり北向きにつくられた。といっても同じ所ではない。2日目は前日より1メートルほど家に寄っていた。3日目はそれから90度ずらして、西向きになっていた。

いやあ、毎日見ていてもあきることがない。日々、工夫して場所を替え、向きを変える。オニグモも考えているんだなぁ。

2024年6月15日土曜日

ブレーカーが落ちる

                    
    朝7時過ぎ、突然、電灯とテレビが消えた。何年か前にも同じことが起きた。

台所にブレーカー盤がある=写真。左からアンペアブレーカー、漏電ブレーカー、そして安全ブレーカーが5個。漏電ブレーカーが落ちていた。

 対処法はなんとなく頭にあった。いったん全部のブレーカーを下げたあと、おおもとのアンペアブレーカーからつまみをあげていく。漏電ブレーカーも飛び出たボタンを押すと、元に戻った。

 明かりが復活し、これで一安心――と思ったのも束の間、また漏電ブレーカーが落ちた。これは家のどこかで問題が起きているのだろうか。

 7時過ぎといっても、明かりの消えた部屋は暗い。電力会社からの書類を探しだし、連絡先に電話をかけると、自動音声で24時間対応のフリーダイヤルを教えられた。

 それをメモしてスマホで連絡を取る。すると、ブレーカー盤の前に誘導され、電話の向こうからの指示に従ってつまみをあげる。

再び明かりがともったのを確認したあと、「またブレーカーが落ちるようだと、連絡ください」。感謝して電話を切ったら、10分もたたないうちに再び部屋が暗くなった。

 これはいよいよ専門家に見てもらわないといけないか。また電力会社のフリーダイヤルにかける。

すると、今度はより具体的なアドバイスを受けた。電力会社も検査はできる(有料)。しかし、それで工事が必要になっても、こちらでは対応できない。

結局、電気工事業者を頼んだ方が早い。「どの業者がいいとかはいえないので、電気工事協同組合に連絡を」。家電商なら知っている。「家電商はダメですよね」「ダメです、電気工事業者です」

時間をみると、まだ8時にもなっていない。連絡するのは9時ごろに――というので、同じ操作を繰り返して明かりをともしたあと、ネットで協同組合のホームページを開き、わが家から一番近い業者を探す。

8時半になってから会社に電話をかけ、こちらの場所を伝えると、ほどなくベテラン職人さんがやって来た。

さっそく検査器を首にかけてブレーカーを点検したが、特に問題はない、つまり急いで工事をするような事態ではなさそうだとか。

しかし、漏電ブレーカーはだいぶ古くなっている。それに、アンペアブレーカーも、設置した当時よりは、電子レンジやパソコン、プリンターなどの機器が増えて容量がぎりぎりになっているようだという。

本格的な工事にはかなりカネがかかる。またブレーカーが落ちるようだと、漏電ブレーカーを交換した方がいい。「そのときはお願いします」「わかりました」ということで、検査が終了した。

とりあえずむだな明かりは消す、テレビを付けっぱなしにしない……。そういったことも含めて、家もまた年をとる、「電気のホームドクター」が必要になっていることを知る。

2024年6月14日金曜日

まずい見本

                      
 野菜かごにキュウリが1本残っていた。買って来てから何日かたつ。キュウリの両端を切り落とすと、内側は水分が飛んで白くなっていた。

 これは漬けてもまずいな――。わかっていても、いちおうは糠床に入れてみる。一昼夜漬けて取り出し、いつものように斜めに切って器にそろえたが……。やはり内側は白いままだった=写真。

 採りたてのキュウリは、水分がたっぷり含まれているので、内側は淡い緑色をしている。

糠床に入れると塩分の浸透圧が作用し、キュウリから水分が抜けてしんなりする。抜けた水分の代わりに、糠床に含まれている酸味や風味がキュウリにしみ込む。それでいい味の糠漬けができる。

しかし、水分が飛んだキュウリではこの浸透圧がうまくはたらかない。結局、味なしと同じなので、食べてもまずい。捨てるのも何なので、醬油をかけて食べた。

キュウリは毎回、スーパーや直売所から3~4本入りを2袋買う。1袋分をすぐ糠床に入れる。夫婦プラス義弟の年寄り3人では、キュウリの糠漬けは一日1本で十分だ。

一昼夜漬けてパッケージに入れ、冷蔵庫で保管する。同時に、残しておいたキュウリは、カミサンがサラダなどに利用する。

水分が飛ぶ前に食べきってしまえば問題はない。しかし、野菜かごにキュウリが1本、忘れられたように残っているときがある。キュウリはすでに張りが失われ、中身も綿のように白くなっている。

そんなキュウリを「再生」する方法はないものか――。似たような経験をしている人が多いのだろう。ネットで検索すると、あった。

まずは炒める。水分が抜けているので、炒め物にはぴったり。シャキッと仕上がるのだとか。

生の状態ではどうか。二重にしたポリ袋に同量の水と氷を入れ、キュウリを浸して袋の口を閉じる。冷蔵庫に1時間ほどおくと、表面の細胞壁がかたくなり、キュウリ独特のパリッとした食感が戻る。

もっと簡単な方法はこうだ。しなびたキュウリを半分に切り、両端を切り落としたのを、水の入ったポリ袋に入れる。そのまま一晩、冷蔵庫の野菜室で寝かせる。これでシャキッとしたキュウリに戻る。

最後のやり方で、しかもポリ袋ではなく、小さなボウルに水を張り、そのままそこにキュウリを入れておくだけにした。

翌日にはしなびた感覚から張りのある感覚に戻っていた。それを糠床に一昼夜入れて取り出すと、味はそれなりにしみている。ただし、シャキッとしたところまではどうも、という感じだった。

まあ、なんとか食べられる、というところまでは「再生」できた。今回はしかし、まだ水分が残っていたからよかった。もっと水分が飛んだキュウリではどうか。

そのときもまた試そうと思う。いやいや、と別の自分がいう。キュウリはやはり水分が飛ぶ前に食べきってしまうのが一番。

2024年6月13日木曜日

幻の軌道会社

                                
 きのう(6月12日)の続きのようなもの、といっても小川郷駅ではない。同じ磐越東線でも磐城常葉駅の話だ。

 このところ毎月、田村郡小野町の鉄道研究家渡辺伸二さん(東方文化堂)から、月刊タウン誌「街の灯(ひ)こおりやま」が届く。

 同誌に「磐越東線 各駅停車散歩」を連載している。これまでに全線で16ある駅のうち、いわき市内の小川郷、川前、赤井、江田など11駅を取り上げた。

 12回目の今回(2024年6月号)は、田村市船引町今泉にある磐城常葉駅を紹介している。

私は同市常葉町で生まれ育った。最寄りの駅はバスの便がある船引だが、距離的にはその東隣、磐城常葉駅の方が近い。しかも、ふるさとの町と同じ名前が駅名についている。

田村市を含む旧田村郡内には、東から夏井・小野新町(小野町)、神俣・菅谷(田村市滝根町)、大越(同市大越町)、磐城常葉・船引・要田(同市船引町)、三春(三春町)の9駅がある。

山が障害になって線路から大きくそれる同市都路町はともかく、なぜ常葉町を鉄道が通らなかったのか――。

私が小さいころ聞いていたのは、汽車の煙突から火の粉が飛んで、沿線が火事になるのを恐れたためだ、というものだった。

でも、渡辺さんの調べではその逆だった。常葉町は町長を筆頭に、磐城常葉駅からの軌道敷設に力を入れた。

渡辺さんによると、船引駅開業の1カ月前(大正4年2月)、当時の常葉町、片曽根村、移村、山根村、七郷村、都路村の1町5村が、鉄道院に磐城常葉駅の設置を請願した。

敷地の提供と総額9181円の寄付をした結果、大正10年4月10日に同駅が開業する。磐東線全線開通からわずか3年半後のことだった。

駅名が磐城常葉になったのは、この地方が昔、「磐城国」と呼ばれていたこと、常葉町が駅請願の中心的役割を果たしたことによるそうだ。

駅から常葉町の中心部まではおよそ5キロある。地元ではさらに常葉軌道株式会社を設立して、磐城常葉駅から町までの軌道敷設を計画する。

常葉町から今泉へは県道常葉芦沢線を利用する。軌道はこの道路に沿って建設された。

始めはSLが客車を引く計画だったが、常葉町と今泉の境(通称:泥棒坂)を登ることができず、これをガソリン機関車に替え、昭和3年上期に竣工、試運転も終えた。

 が……、資金繰りが続かず、営業運転ができなかった。同7年には自動車営業を加えて再建策を諮ったが許可されず、翌8年4月10日に会社は解散した。

今泉への坂は、子どもの私らも大人にならって「ドロボー坂」と呼んでいた。険しくはないが、境の峠まで長い坂が続く。SLさえ息を切らす、というのもうなずける。

渡辺さんの文章に刺激されて、『常葉町史』(1974年)を開いてみた。鉄道敷設計画、反対運動、軌道会社設立などの経緯が記されていた。

車で帰省するたびに利用していた県道が幻の軌道会社のルートだったとは……。これもまた歴史の妙味というほかない。

2024年6月12日水曜日

愛された駅舎

                     
 田村郡小野町の東方文化堂・渡辺伸二さんから、JR磐越東線小川郷駅舎の特別展図録をちょうだいした=写真。

 日曜日(6月9日)、夏井川渓谷の隠居へ行った帰りに図録を思い出し、寄り道をして新しい駅舎をのぞいた。

 古い木造駅舎はそれなりにモダンな趣があったが、新しい駅舎は箱型で中にベンチがあるだけ。無人化駅だから、それもしかたないか――。

磐東線沿いを行き来しながらも、列車を利用しなくなった人間は勝手にそんな思いを抱いた。

それはともかく、図録には目を見張った。よくぞ、ここまで。さすがは磐東線研究者だ。

渡辺さんはいわき市にある平工業高校へ列車で通学した。鉄道オタクでもある。平成19(2007)年には『磐越東線ものがたり 全通90年史』を出版した。

磐東線に関してわからないことがあると、総合図書館からこの本を借りて来る。草野心平の詩「故郷の入口」に出てくる「ガソリンカー」も、これで詳細を知った。

6年前にUターンし、自宅兼店舗に磐越東線ギャラリーを開設した。新聞で知り、マイクロツーリズム(山里巡り)の途中に立ち寄った。

ギャラリーの奥、かつては居間だったスペースは「ミニ企画室」、さらにその奥は「ミニ図書室」になっていた。

名刺を交換して以来、メールがくるようになった。現在、月刊タウン誌「街の灯(ひ)こおりやま」に「磐越東線 各駅停車散歩」を連載している。それも毎回届く。

小川郷駅舎の解体・新築に伴う特別展は、令和5(2023)年7月31日から12月30日まで開かれた。

図録は横A4サイズで本文50ページ余。小川郷駅の歴史、写真による今昔、駅舎の待合室や改札口、ホームの上屋や待合室などのほか、小川郷(さと)の会の活動も写真を多用して紹介している。

「マスコミ報道」は県紙のほかに、地元・いわき民報の記事ももれなく掲載した。ついでながら、月曜日(6月10日)の同紙は、1面トップで特別展図録の刊行を記事にしている。

駅舎は心平の詩の検証には欠かせない。が、同時にSL時代の駅構内の写真には学生時代の記憶がよみがえった。

駅に隣接して「粘土積込場」が建設された。昭和39(1964)年に平高専(現福島高専)に入学し、夏休みなどの長期休暇に中通り出身の級友たちとSLで帰省した。その途中、小川郷駅ではこの巨大な建物に圧倒された。

渓谷の隠居へ通い始めたころ、平の上平窪から小川の下小川に入ると、頭上を運搬ケーブルが横断していた。

磐城セメントが平窪~下小川の地下に眠っている頁岩(けつがん=セメントの原料)を掘り出して小川郷駅へ運び、貨車で田村工場と四倉工場へ輸送していたという。

小川町の故国府田英二さんからちょうだいした冊子『昔のおがわ 今のおがわ』(2016年)で知った。

その冊子と連結する図録でもある。開業以来108年、「愛された駅舎」だった。つくづくそう思う。

2024年6月11日火曜日

清掃デー

         
 長く区の役員をやっていると、同じ年間行事でも「今年はちょっと違うな」という思いになるときがある。

 6月8日(土曜日)の朝、神谷地区の区長8人が参加して、公民館の庭木の剪定作業を行った。

いつもだと公民館を利用するサークルからも参加してにぎやかなのだが……。参加者は区長だけだった(あとで自分のブログを確かめたら、去年もそうだった)。すでに庭の草刈りはすんでいた。

区長協議会ではこの日、公民館の清掃が終わると、近くの平六小裏山公園の「忠魂碑」と「殉国碑」、そしてふもとの立鉾鹿島神社の森にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」の草刈りをし、併せて慰霊祭を行う。

区長協議会が忠魂碑の草刈りと慰霊祭を行うようになったいきさつは、これはもう高齢社会と無縁ではない。

遺族会が解散することになり、ほかに受け皿がないことから、コミュニティを束ねる区長協議会が肩代わりすることになった。

小学校の裏山公園は東西にのびる丘の一角にある。周りは常緑・落葉樹が生い茂り、あまり日光が差し込まない。おかげで雑草は碑の前に少しあるだけだ。

短時間で草刈りが終わると、近くから調達した細い竹を忠魂・殉国碑の周りに立ててしめ縄を張り、紙垂(しで)をつるす。お神酒(ワンカップ)を上げて、二礼二拝一礼をする。これが慰霊祭のルーティンだ。

しかし、今年は慰霊祭の前にしなければならないことがあった。忠魂碑のそばに小さな記念碑が立っている。

この記念碑を無視するように、近くで伐採された竹と木が運び込まれ、積み重ねられていたのだ。これにはだれもが唖然とした。

記念碑を伐採木で埋もれたままにしておくわけにはいかない。区長の一人がふもとへ下り、自分の車からチェンソーを持ってきて、細かく切断して碑の周りをきれいにした。

翌日は春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動最終日の「清掃デー」。起きると曇りだった。一斉清掃に支障はない。6時を過ぎると、近所からも人が出て、歩道を中心に草むしりなどをした。

区の保健委員を兼務しているので、まずはざっと区内を一巡して、清掃デーに参加した人数を数える。

清掃活動はおよそ1時間で終了する。その後また、清掃デー用に指定されたごみ集積所を巡ってごみ袋の中身をチェックし、出された袋の数を調べる。ほとんどが草花と剪定枝だった。

事前にごみ袋を世帯当たり1枚配る。側溝土砂用の土のう袋は隣組当たり1枚だ。土砂は土のう袋に入れて、集積所とは別に1カ所指定して、そこに集めることを回覧=写真=で周知しているのだが……。

1カ所だけ、前から草花と一緒に置いてあるところがある。今年もそうだった。それを車のトランクに積んで指定の集積所へ持っていく。「ルール無視」が今年はもう1カ所増えた。

戸建て住宅のエリアでは高齢化が、集合住宅では少子化が進む。回覧の書き方をもっと工夫しなければ――またまたそんなことを思った。

2024年6月10日月曜日

上桶売のこと

        
 今から3年前の令和3(2021)年6月中旬。日曜日に夏井川渓谷の隠居を通り越して、川前町上桶売にある「いわきの里鬼ヶ城」を訪ねた。

 平地の夏井川流域ではすっかりカッコウの鳴き声を聞かなくなった。野鳥に詳しい若いカメラマンに聞いたら、鬼ヶ城で鳴き声を確認したという。それで久しぶりに出かけたのだった。

 そのときのブログがある。平のわが家から渓谷の隠居までは車で30分。隠居からいわきの里鬼ケ城へもざっと30分だ。まずはその時間距離について書いている。

――車で30分圏内であれば、あれこれ考える前に着く。距離も時間も苦にならない。が、1時間となれば出かけるのに覚悟がいる。行くとしてもせいぜい半年、あるいは1年にいっぺんくらいだろうか。

実際には、鬼ケ城を訪ねたのは6年ぶり、その前も5年くらいの間隔が開いていた。1年どころか5年サイクルだ。

いわきの里鬼ケ城は鬼ケ城山(887メートル)の中腹にある。広大な敷地内にキャンプ場、コテージ、レストハウス、グラウンド、山里生活体験館などが配置されている。なにより高原の澄んだ空気がおいしい。

9時前、鬼ケ城に着いた。前日、郡山市からやって来て泊まったという若い家族連れがキャンプ場にいた。さっそくカッコウの鳴き声の有無を尋ねる。「聞きました、夜明けに」

そうだった、忘れていた。高原では夜明け前1時間、鳥たちが大コーラスを繰り広げるのだった――。

最近、パソコンに取り込んだ撮影データを整理(消去)していたら、このときの写真が出てきた。

鬼ヶ城の施設内に植わってあるシラカバやカシワ、池の小動物のほかに、同じ上桶売の「雨降松(あめふりまつ)」を前景にした集落の撮影データもあった=写真。

先日、NHKの「東北ココから」で、「限界集落住んでみた 福島いわき上桶売集落」編が放送された。そのロケ地でもある。

このブログの写真でいうと、手前の木の奥に見える道路を右に進めばいわきの里鬼ヶ城、逆に左へ向かえばほどなくNHKのディレクター氏が1カ月滞在した集落になる。

テレビの映像にディレクター氏の文章を重ねると、彼が住み込んだのは寺の敷地内にある地元の集会所で、住民が電子レンジや冷蔵庫、ホットカーペットなどを持ってきてくれたそうだ。

山間部の4月といえばまだ寒い。しかし、初日から大歓迎の生活が始まった。5月には田植えを控えている。その準備のなかで種まきを経験する。

そうした春から初夏にかけての山里の暮らしを、いわきの平地に住む私らも、実はよくわかっていない。

という意味では、いわき市民自体がはるか山間部の暮らしを知るいい機会になった。

にしても、と思う。市から指定管理者となっていわきの里鬼ヶ城を運営している会社は令和7年3月末をもって解散する。

市はその後の施設の利活用を民間業者と話し合っていくという。「遠い」をいかに「近い」にできるか、だろう。

2024年6月8日土曜日

茨城の海岸線物語

                    
 「常陽藝文」の最新号(2024年6月号)は、「いばらき海岸線物語」を特集している=写真。

 江戸時代、いわき地方の年貢米は小名浜や中之作などの港から、茨城の那珂湊や千葉の銚子経由で江戸へ送られた。江戸の文化もまた逆のルートでいわき地方にもたらされた。

いわきと茨城は陸路だけでなく、海上の道でもつながっていた。今回の特集もまた、いわきとのつながりを意識しながら読んだ。

そもそも「常陽藝文」の定期購読者になったのは、茨城を知ることでいわきが見えてくることがあるからだ。

 近代詩の山村暮鳥しかり、童謡の野口雨情しかり。磐城・山崎の専称寺で修行し、のちに江戸で活躍した幕末の俳僧一具庵一具もまた、常陸と磐城地方に俳諧ネットワークを築いていた。

 茨城の海岸線は総延長190キロに及ぶという。福島県は南北に約164キロ。そのうち、いわきの海岸線は3分の1近い60キロ余を占める。市町村レベルではやはり長い。

 特集では、南端の神栖(かみす)市から北端の北茨城市まで、地域や海とのかかわり、歴史や生活文化など九つの物語を紹介している。

 「鹿島アントラーズ誕生秘話」(鹿嶋市)がある。「息づく芸術的風土」(北茨城市)がある。

後者はいわきの隣のまちの話なのでわかりやすい。岡倉天心、そして野口雨情をまくらに、北茨城の内陸に移り住んだ芸術家夫妻を取りあげている。

 興味を引いたのが二つある。一つは「海水浴の始まり『潮湯治』」(大洗町)だ。明治18(1885)年、神奈川県大磯に海水浴場が開設される。これが日本の海水浴の起源とされる。

それ以前には「潮湯治」が行われていた。大洗町でも、江戸時代、守山藩主が常陸・松川陣屋に滞在して、磯浜村西福寺で潮湯治をした、という記録が残っているそうだ。

それが近代になって海水浴場へと発展し、人気を集めるようになるのは、鉄道網の普及が大きかった。

明治28(1895)年には早くも『大洗海水浴場誌」が発行される。大洗は海水浴場の火付け役でもあったという。

いわき地方では明治36(1903)年、四倉に海水浴場が開設されたのが始まりのようだ。

大洗同様、四倉海水浴場も鉄道(常磐線)の開通によってにぎわった。なにしろ駅から歩いてすぐのところに海がある。

戦後は、中通りから海水浴専用の臨時列車が繰り出したり、平(現いわき)―永崎海水浴場を直通列車が運行したりしたという。

さてもう一つ、「漁業の父・三代芳松」(日立市)も印象に残った。芳松は茨城の漁業史上、代表的な人物だという。漁法の改良に尽くし、それが全国へと広がった。

いわき市合併時、磐城市長を務めていたのは漁業家三代義勝。義勝は日立市の漁民の子として生まれたという。

年齢的には、義勝は芳松より一世代若い。でも、日立の三代、ということでいえば、一族だったのかもしれない。いわきと茨城のつながりゆえの「思いつき」ではあるが。