2024年8月31日土曜日

「熊のような動物」

                        

   県紙は、ツキノワグマが生息している会津地方では「熊を目撃」、生息が確認されていない浜通り、たとえばいわき地方では「熊のような動物を目撃」と表現を変えるようになった。

「熊のような動物」には、クマかもしれないが、クマではないかもしれない、といったニュアンスがある。夕刊のいわき民報も、本文では「クマのような野生動物」になっている=写真。

いわき市民に対する市の注意喚起情報からして慎重だ。先日の防災メールの内容をざっくり紹介する。目撃された日時と場所以外は定型文だ(原文は「ですます」調)。

――8月27日午前5時ごろ、大久町小久字伏木田地内で、大きさ70~80センチのツキノワグマと思われる野生動物の目撃情報が寄せられた。

警察が同日午前中、現場を確認し、付近をパトロールしたが、ツキノワグマのフンや足跡その他の痕跡は発見されなかった。

いわき市内では、ツキノワグマが生息(定着)している可能性は低いとされるが、ツキノワグマの行動範囲は広く、エサを求めて市域外から往来している可能性はある。

ツキノワグマは早朝や夕方に行動が活発になるといわれているため、同時刻に農作業や散歩などをする場合は注意してほしい――。

いわきにクマは生息していない。今までの私ら市民の認識ではそうなるので、市街地から沿岸部での目撃情報には、ほかの動物と見間違えたのではないか、という疑問が残る。

しかし、田村郡や双葉郡などと接している山間部では、そうはいかない。足跡が発見されることもあって、実際にクマが現れたのだと緊張が走ることがある。

今年(2024年)1月下旬には、三和町中三坂字湯ノ向地内でクマが目撃され、付近の畑でクマのものと思われる足跡が確認された。

 1月25日付のいわき民報によれば、狩猟免許を持つ住民が同20日午後3時ごろ、湯ノ向地内でクマ1頭を目撃した。体長は約80センチだった。

同じ阿武隈高地の田村市船引町で令和3(2021)年初夏、ツキノワグマがイノシシ用の罠にかかったことがある。

捕獲場所はJR磐越東線磐城常葉駅の西方、「田村富士」と呼ばれる片曽根山(718メートル)の南麓に広がる水田地帯だ。

阿武隈高地の分水嶺から西側に特有の、穏やかな「準平原」である。皮肉といえば皮肉だが、それで阿武隈高地にもクマが生息(往来)していることがわかった。

「阿武隈の山にはクマはいない」。昔からそういわれ、私もそう思ってきたが、最近はあちこちで姿や足跡が目撃されるようになった。

 現時点ではこう考えた方がいいのだろう。いわきには、クマは生息していない。が、阿武隈高地には生息・往来の可能性がある。つまり、市域外からやって来る可能性は否定できない、と。

 小久の伏木田地内をグーグルアースでチェックすると、久之浜から四倉へと抜ける山あいの県道沿いで、両側に細く長く田んぼが伸びる。

 クマが出没してもおかしくはないが、やはりポツンと現れた感じが強い。県紙の表現が「熊のような動物」になるのもうなずける。

2024年8月30日金曜日

昔は川で遊んだものだが

                        
 私たちがふだん接している自然はほんの一部でしかない。家の庭、夏井川渓谷にある隠居の庭と周辺の森、通りすがりの田んぼや川……。

 そこに生きている動物や植物、あるいは森の菌類(キノコ)には関心があるが、深く知っているわけではない。

いつも専門家の知見やネットの助けを借りる。テレビや新聞が報じる情報にも目を留め、耳を傾ける。

 8月には2回、知らない自然の脅威に触れた。一つは特定外来生物の「ナガエツルノゲイトウ」が福島県内で初めて、いわきで発見されたというニュースだ=写真。

 いわき民報はたまたま、ニホンカモシカが中山間地だけでなく、市街地でも目撃されるようになった、という記事を併せて載せた。

 カモシカはともかく、特定外来生物の方は初耳だ。市内の水田と周辺の水路で初めて生息が確認されたという。

 この植物が繁殖すると農作物が減少し、農業機械の作業効率が低下するだけなく、水路をふさいで取水・排水に障害をもたらすという。

 ナガエツルノゲイトウは南米が原産で、水草なのに乾燥にも強い。刈り取っても、ちぎれた茎から簡単に再生・拡散する。「地球上で最悪の侵略的植物」だそうだ。

 アクアリウムなどの観賞用に導入されたあと、野外に逸出し、今では茨城県から西日本にかけて繁殖が確認されている。つまり、隣県から東北南部へと分布を広げつつあるわけだ。

 もう一つの脅威は、「川遊びで感染症?」という全国紙の記事だった。熊本県天草市で、高校生らが滝で川遊びをしていたあと、相次いで体調不良を訴えた。

 「川遊びで感染症になるケースは珍しくない。症例が多いのはレプトスピラ症」だとか。

「菌を持っているネズミなど野生動物の尿などで汚染された川で泳いだり水を飲んだりすると感染する危険性がある」

ただし天草の場合は、レプトスピラ症は考えにくいとあって、なんとも歯切れの悪い記事だった。

すると、4日後に続報が載った。熊本県は、ノロウイルスが原因の可能性が高い、とみているそうだ。

自然界に存在するだけでなく、生活排水や人間が持ち込んだ可能性もあるため、特定には至らなかったようだが、ノロウイルスとは、よく耳にするウイルスではないか。

 今は川岸に「危険 川で遊ぶな」の立て札があるが、私らが子どものころは、夏、川で水泳ぎをするのが普通だった。学校にはプールがなく、町営のそれもなかった。

 もう65年も前の話だから、若い人にはピンとこないだろうし、水泳ぎといっても、実態は水浴び、あるいは水遊びでしかなかった。

 水源に近い山里の川なので、流れはひざ下しかなかった。泳げるのは淵になっているところだけだ。

生ごみも川に流すのが当たり前のような時代だった。捨てられたガラス瓶のかけらで足の親指を切ったこともある。

それでも感染症などの話は聞いたことがなかった。なにか自然が、人間が昔とは違うステージに移ったということなのだろうか。

2024年8月29日木曜日

日記健康法

                                 

   イラストレーターでエッセイストの田村セツコさん、といっても、男性はどのくらい知っているだろう。私も1年前までは全く知らなかった。

カミサンは高校生のころから、少女雑誌の挿し絵画家としてなじんでいたそうだ。86歳の今も、「少女」のままの服装と夢見る心で生きている。

 まずは拙ブログ(2023年12月29日付)で私が彼女を知った経緯と、彼女の人となりを紹介する。

――夕方は全国・ローカルのニュース番組を見る。7時台は、カミサンの見たい番組があればそちらを優先する。

 2023年12月25日の月曜日は夜8時になってから、カミサンがEテレにチャンネルを合わせた。

 ハートネットTV「私のリカバリー 85歳のトキメキはやまず 田村セツコ」。彼女の服装はまるでおしゃれな少女のままだ。表情もとてもおばあさんには見えない。

こんな人がいたのか! 少女雑誌を読まずにきた人間は、それこそ少女がそのまま老女になったような不思議さにびっくりした。翌日、図書館から彼女の本を3冊借りて読んだ。

 まずは、これまでの歩みを。1938(昭和13)年東京に生まれ、1960年代に雑誌「少女ブック」やマンガ誌「りぼん」「なかよし」の表紙などを担当した。1980年以降は名作童話の挿し絵も描いた。

現在は、絵日記教室の講師のほかに、年に数回の個展、講演会などを開いているという。

 テレビで見たときの第一印象はまさに10代、それも小学生の女の子が着るような服装だった。

 驚いたのは外見よりも内面の方だ。老いを初体験と考え、母と妹のダブル介護を苦痛ではなく楽しみにする好奇心。

 介護のコツは相手を褒(ほ)めて褒めまくることだという。「さすが」と「おかげさまで」は点滴より効果がある。

「わたしもいつのまにか、おばあさんの仲間入りをしました。ま、とにかく、おばあさんになるのは、生まれて初めてなので、内心、ひそかに、わくわくドキドキしているところです」――

 それから8カ月。カミサンが移動図書館で借りた彼女の本、『86歳の健康暮らし――だれにも言ってないひみつの健康法』(興陽館、2013年)を持って来た=写真。

 いろいろある健康法のなかから、二つを紹介する。まずは「メモ魔健康法」。絵日記講座の基本は「メモ魔、落書きの絵と文章、メモで絵日記」を描くことだという。

 それは「日記健康法」とも重なる。日記は小学4年生のときに始めた。メモもそうだが、書くと「気持ちが整う」。

 「なんでも正直に書くと、たいていの問題は解決して、おおらかになる」。日記は過去のことではなくて、現在の心を楽しくさせる「現役として、すごく役に立つ」ものだともいう。

 私のブログの素材は、紙に書き連ねた日々の雑録=メモ(日記)だ。それしかない、といってもいい。

「正確に、心をこめて、書く」(詩人鮎川信夫)ためにも、絵日記はともかく、メモは多ければ多いほどいい。

2024年8月28日水曜日

いつ改修される?

                             
 いつになったら改修されるのだろう。夏井川渓谷の隠居へ行くたびに、疑問に思う個所がある。渓谷でも最も道が狭い県道小野四倉線の竹ノ渡戸地内だ。

山側の急斜面にはワイヤネットが張られている。谷側は路肩が崩れて、何年か前からカラーコーンが置かれたままになっている=写真。いっとき改修工事が行われたと思ったら、途中で終わってしまった。

この間、ワイヤネットが張られた山側からせりだしている大木が茶髪になった。ナラ枯れだった。

空中に電線と電話線が架かる。しかも、樹幹はほぼ道路の真上にきている。近い将来、間違いなく落枝・倒木が起きる。下を通る車だけでなく、渓谷に点在する小集落のライフラインが断たれかねない。

 隠居のある牛小川の住民もやはり同じ思いでいた。秋の終わりに家を訪ねると、竹ノ渡戸のナラ枯れ木の話になった。「陳情しようと思っている」という。

それから1カ月余りたった師走の日曜日、竹ノ渡戸を通ると、ナラ枯れ木が伐採されてなくなっていた。ひとまず頭上の不安は解消された。

 隠居からの帰りは必ず、ロックシェッドの先にある別のナラ枯れの大木を見る。すでに枝は枯れ、幹にキノコが生えている。幹が折れるのは時間の問題だろう。

 渓谷では絶えず落石や落枝が起きている。大雨になると冠水や路肩崩落の危険もある。たまたま人命や財産を脅かすまでには至っていないだけだ。

 東日本大震災が起きたときにはしばらく通行止めになった。隠居へは国道399号の横川地区から江田地区へと、母成(ぼなり)林道を迂回して出かけた。

 令和元年東日本台風では、小規模な土石流や落石、土砂崩れ、路肩崩落などが相次いだ。

去年(2023年)は7月、渓谷の急な崖と谷がゆるやかになり、尾根が低くなって平地に滑り込む高崎地内で県道が陥没した。

谷側はコンクリート護岸で守られている。その護岸の内側の土がえぐられてなくなった。

8月下旬から9月初旬にかけて工事が行われるという予告の看板が県道に立ったが、そして工事は行われたが、いまだに仮信号機は撤去されずに残っている。工事はまだ終わっていないのだ。

 それだけではない。同年の7月中旬、竹ノ渡戸の隣、香後地内で谷側のガードレールが大きくへこんでいた。

最初、交通事故かと思ったが、車がぶつかったにしてはへこみが激しい。山側のガードを越えて大木が根元から折れて倒れたのだった。

竹ノ渡戸のカラーコーンは、もう見慣れた風景だ。が、道路の中央部に、鉄骨とガードレールを組み合わせた防護柵があるのに、最近気づいた。前からあったかどうか、わからないが、なぜなのか疑問がふくらむ。

 ワイヤの張られたがけ側は水がしみ出し、アスファルト路面がでこぼこになっている。そちらまで破壊が進んで道路が寸断されることがないように――。毎回通るたびに不安がよぎる。

2024年8月27日火曜日

体育祭が無事終了

         
 地区の体育祭は例年、9月最初の日曜日に行われる。今年(2024年)は1週間前倒しで、8月25日の日曜日に行われた=写真。

理由は9月1日告示、同8日投票でいわき市議選が行われるからだ。つまり、4年に一度はそうなる。

 会場は小学校の校庭で、雨になれば「1週間延期」が慣例だが、今年は打ち合わせの時点で「中止」に決まった。

 前は8月後半から9月前半の天気をあまり気にしないですんだ。ところがこの10年ほどは天気だけでなく、人集めでも苦労するようになった。

体育祭に言及した2015年のブログによると、この年も気象は今年に似ていた。以下はその要約・抜粋。

――月遅れ盆あたりから雲行きがあやしくなった。体育祭の前1週間は、やはり天気予報が気になる。さいわい体育祭は9月6日の日曜日、無事に開かれた。

地区には八つの行政区がある。わが区では区と子どもを守る会のメンバーとが合同会議を開き、守る会に団体競技の出場メンバーを一任する。

 出場メンバーのうち、主力の家族は体育祭が延期になると参加が難しい、というケースがある。守る会も選手確保には頭を痛める。

区の役員にとっても体育祭が開かれ、反省会が終わるまでは気が抜けない。その反省会も様変わりした。

私ら年寄りはカツオの刺し身がごちそうだが、40~20代の若い人たちは、「カツ刺し」よりは鶏の「から揚げ」に手が伸びるようだ――。

それらを含めて振り返ると、この10年余で変わったのはまず気象だろう。今年は8月に入ると、雨季を連想させるような天気が続いた。台風の心配も増えた。

 月遅れ盆の精霊送りがそうだった。体育祭も雨が心配だった。どちらも結果オーライになったものの、いつかは雨にたたられるのではないか、そんな不安がよぎる。 

体育祭が雨で延期になれば、区のテントの撤収・張り直しと大変な労力が必要になる。2014年がそうだった。

そして、もう一つ。毎日うだるような暑さが続く。「熱中症特別警戒情報」が発令されたときにはどうするのか。雨ではないからといって開催するのか。

やはり、熱中症予防のための「延期」ないし「中止」も視野に入れないといけなくなったのではないか。

 選手集めは今年も知り合いの元守る会会長さんに一任した。というのは、守る会そのものが解散してなくなったからだ。

 子どもが少ないということは、親が少ないということでもある。そして、年寄りが増えた。少子・高齢社会が地域の実情で、体育祭の花形だったリレーもそれですでに廃止になった。

 団体競技の玉入れや綱引きは男女・年齢の制限がなくなった。それでも一時は人数確保が難しかったという。

そういうわけで体育祭そのものがプログラムの縮小から正午前に閉会するように変わった。反省会も選手たちの要望でなくなった。

わが区はしかし、参加すると強い。綱引きは完敗したが、安全運転は1位、玉入れは2位で、総合では準優勝になった。勝てばやっぱりうれしい。

2024年8月26日月曜日

明治の「五日市憲法草案」

                             
   明治初期、各地で自由民権運動と国会開設運動が展開された。併せて私擬憲法草案もつくられた。

政府はこれらを抑えこむため、明治14(1881)年10月、明治天皇の名で「国会開設の勅諭」を出し、同22年2月に帝国憲法を制定する。翌23年11月には、7月の第1回衆議院議員選挙を経て帝国議会が開かれる。

帝国憲法が制定されたことで、多くの私擬憲法草案は日の目を見ることがなかった。草案で有名なのは土佐の植木枝盛(1857~92年)が書いた「東洋大日本国国憲按」だが、ほかにも奥多摩の「五日市憲法草案」が知られる。

「五日市憲法草案」は昭和43(1968)年、色川大吉東京経済大学教授とゼミの学生らによって、旧家の土蔵から発見された。

その経緯と草案起草者千葉卓三郎(1852~82年)の足跡を記した本が、図書館のリサイクル本コーナーにあった。カミサンがそれを譲り受けた。

伊藤始・杉田秀子・望月武人著『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』(くもん出版、2014年)=写真=で、著者の3人はいずれも教員経験者だ。児童向けの本で、漢字にはすべてルビが振ってある。

五日市はどこにあるのか。まずはそこから探索を始める。東京都のほぼ西端、あきる野市五日市だという。

草案が眠っていた土蔵はそこからさらに山奥の深沢というところにあった。五日市を流れる秋川の支流・三内川の上流部で、いわきでいえば、夏井川渓谷で本流に注ぐ中川のようなものだろう。

ストリートビューで深沢地区を訪ねると、川も道も細い。いわきでいえば中川の上流部、川前・外門(ともん)地区にムラの雰囲気が似る。

リサイクル本によると、当時、深沢村の豪農深沢名生(なおまる)の長男権八が村長役を務めるかたわら、五日市学芸講談会の幹事となって自由民権運動を指導した。

五日市には「勧能学校」があって、現宮城県出身の校長がいた。その引っ張りで同郷の千葉卓三郎が先生を務めた(のちに第2代校長となる)。

千葉は教職のかたわら民権運動に取り組み、学芸講談会にも顔を出した。その過程で憲法草案を起草する。

草案の中身に立ち入る余裕はないが、現「日本国憲法」との類似点を記した第5章にはうなった。

五日市憲法草案は全204条からなる。その第45条は「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可(ベ)シ他ヨリ妨害ス可(ベカ)ラス(ズ)且(カツ)国法之(コレ)ヲ保護ス可シ」。日本国憲法の第11条(基本的人権の享有)にも通じる思想だという。

朝ドラの「虎に翼」をつい連想したのが、第47条だ。「凡(オヨ)ソ日本国民ハ族籍位階ノ別ヲ問ハス(ズ)法律上ノ前ニ対シテハ平等ノ権利タル可シ」

著者3人もまた、日本国憲法第14条(法の下の平等)とほぼ内容が同じことに感服する。

中央政府から見たら末端の、しかし時代から見たら先端の山奥で生まれた憲法草案。なんともいえない爽快さが脳内にしみわたる。

2024年8月24日土曜日

ミョウガの子を収穫

                     
 月遅れ盆を前に、夏井川渓谷にある隠居の庭がきれいになった。後輩が上と下の庭の草を刈ってくれた。

 緑の繁殖力はすさまじい。6月末にも刈ってもらったが、わずか1カ月ちょっとで地面が見えなくなった。

 上の庭は分校の校庭並みに広い。下の庭は、その倍はある。そこを自走式の草刈り機で往復する。たちまち「坊主刈り」の長い帯ができる。

上の庭の一部を菜園にしている。カミサンの花壇もある。このごろは花壇が増殖中だ。

伐採したキリの古木の根元にミョウガが植わってある。カミサンはそれも花壇の一部に取り込み、手入れをしている。

ミョウガは年に2回楽しめる。春、ミョウガタケが芽生えてのびる。初秋、ミョウガの子(花穂)が茎の根元に現れ、花を咲かせる。どちらも汁の実や薬味にする。

ミョウガは、平の自宅にもある。8月後半になると、ミョウガの子が現れる。ところがどういうわけか、こちらのミョウガの子は出現が遅れ気味だ。

令和2(2020)年は1カ月以上遅れて9月末に現れた。同3年は月遅れ盆から1週間ほどたった8月下旬になって、白っぽい花が咲いているのを見つけた。今年(2024年)はもう8月下旬だが、まだのようだ。

自宅の庭のカキの木の下にはさまざまな草が生える。ミョウガも丈が1メートルを超える。ヤブカがわんさといる。少しでも草をかきわけて入り込むと、たちまちすねにヤブカがたかる。

カミサンも、私も、それで採るのをためらってしまう。ミョウガの子が出ているかどうかは、外からうかがうしかない。

それに比べたら、隠居のミョウガはヤブカとは無縁だ。周りも草が刈られてすっきりした。風がよく通る。

お盆明けの8月18日、花壇の手入れを兼ねてカミサンがミョウガの子を収穫した=写真。

その数ざっと30個といったところだろうか。よく水洗いをして土とごみを取り除き、花も含めて持ち帰った。

 いつものように、味噌汁に散らす。知人にもお福分けをする。何個かを二つに割ってガーゼにくるみ、糠床に入れた。

ミョウガは、やはり独特の香りがいい。香りの正体は「α―ピネン」と呼ばれるもので、物忘れどころか集中力を高める効果があるそうだ。

加熱すると香りは減じるというから、やはり即席漬けが一番だろう。ほんとうはカブとキュウリの一夜漬けにしたいところだが、キュウリは旬を過ぎた。

糠漬けは、12時間では少し足りなかったかもしれない。外側の皮はほどよく漬かったが、内側が少し生に近かった。あと3時間。次はそれだけ長く漬けてみようと思う。

ついでに食べたいのは、ミョウガの甘酢漬け。カミサンに頼んで、タマネギの甘酢漬けにミョウガの子を加えたことがある。

結果オーライで、いいあんばいに漬かった。甘酢がしみてやわらかい。香味も失われていない。初秋のおかずにふさわしい一品になった。

2024年8月23日金曜日

日常を「編集」する

                     
   8月21日にこの夏初めて「秋」を感じた。室温は一日中、30度未満だった。夜は風邪を引かぬよう、腹だけにかけていたタオルを縦にして上半身にかけた。

台所の軒下にある鉢植えのアサガオも花を付けはじめた=写真。そこへ訃報がネットをめぐった。いちだんと秋の気配が濃くなった。

「編集工学」の提唱者である編集者・著述家の松岡正剛さん(80)が亡くなった。翌22日の新聞に死亡記事が載った。アラン・ドロンに比べたらささやかなものだ。

新聞記者になるかならないころから、名前は知っていた。5歳年上だが、ジャンルを超えた視点で日本文化を論じる知性には目を見張った。

 彼のいうことが十分理解できたわけではない。が、なんとなく先入観や偏見がほぐれていくのを感じた。

その最たるものが「編集」だろう。新聞記者になり、書くだけでなく編集する側にも回った。仕事に行き詰まると、編集関係の本を読んだ。松岡さんの本も開いた。

 松岡さんの本から学んだことで、「これだけは」といえるものがある。やはり「編集」に関することだ。

「編集」とは新聞や本、雑誌などをつくることだけではない。明日の自分の一日の予定を組み立てる。何時になにをして、何時にはどこそこへ行って、何時にはだれそれと会う――これもただの「予定」ではなく、一種の「編集」とみなすことができる。

その意味では、人間は絶えず自分を、自分と社会とのかかわりを「編集」しながら暮らしているのだ。

フリーになったあと、「一日に1回は締め切りを持つ」ことにした。具体的には毎日ブログを書く――。そう決めたら一日の過ごし方がガラリと変わった。

 それにはこんな経緯があった。2007年秋に会社をやめて、やっと「締め切り」のない生活を楽しめると思ったのも束の間、年が明けると次第に気持ちが落ち着かなくなった。

 ちょうどそのころ、若い仲間から「ブログをやりましょう」と声がかかった。ノートパソコンは新調したものの、情報の検索に使うだけだった。

「全部セットします、文章を打ち込むだけでいいです」というので、2008年2月下旬、「新聞コラム」の感覚でブログを始めた。

そこから一日に1回は自分に「締め切り」を課する、という生活が始まった。以来16年、ブログは5700回を超えた(もっとも最近は、日・祝日を休むようにはしているが)。

 松岡流編集術の基本には、情報の収集~情報の関係づけ~情報の構造化~情報の表現という4つのステップがある。

要は情報のインプットとアウトプット、それを日々、ブログを書くことで経験しているということになる。

 インプット(読書・隠居での土いじり・その他もろもろのできごと)の渦の中で見えてきた情報をアウトプット(文章化)する――。

日常を「編集」する、という思いは、まちがいなく正岡さんから学んだものだ。ブログはそのなかでも思考が形になって残るところに面白さ(と怖さ)がある。

2024年8月22日木曜日

91歳で書いた本

                            
 8月初旬のことだ。新聞をめくっていたら、女優で作家の岸恵子さんの新刊本を紹介する記事が載っていた。

『91歳5か月 いま想うあの人 あのこと』(幻冬舎、2024年)=写真。岸さんとつきあいのあった俳優や監督、作家などとの忘れがたいできごとをつづっている。

岸さんは8月11日で満92歳になった。1月にこの本を書き上げたときは91歳5カ月だった。その時点での実年齢をそのまま本のタイトルにした。

「高齢者の自覚」など3編は既発表だが、残る15編は書き下ろしだという。表現への、なんという意欲だろう。

「高齢者の自覚」は岩波書店のPR誌「図書」2022年5月号に掲載された。読んで感じるところがあったので、ブログで紹介した。以下はその一部。

  ――岸さんは横浜に住んでいる。坂の上に家がある。散歩をするために、毎日、車で山下公園へ出かける。

ある年、フランスに住む娘が家族とクリスマス休暇で来日した。娘が車を運転してドライブしたあと、やはり車を運転する母親にいう。「ママン、車庫入れしてみて」

「今まですっと入れていたのに、今日は二回も切り返した!」。で、娘にいわれる。「ママン、免許返納の時が来たのよ」

岸さんは82歳になっていた。「ハンドルを握って自由気ままにドライブすることが最高のリラックス法だった」が、家族の心遣いを受けて、その日で運転を断念した。

池袋暴走事故で加害者の元高級官僚に実刑判決が出たとき、岸さんは娘とのやりとりを思い出す。

「月日は容赦なく流れ、私は89歳になってしまった。山の上に住む私は、何処に行くにも坂だらけ、車を失った私はめったに散歩をしなくなり、筋肉が衰えた」――

カミサンは岸恵子ファンでもある。記事を読んだら、すぐ本屋へ直行するに違いない、と思ったら、すでにこの本を手に入れて読み終えていた。では、次は私が読むとしよう。

「高齢者の自覚」はどちらかというと、年齢相応の穏やかなエッセーだ。ところが、巻頭の「『ベコ』という女性」には絶句した。

 映画界に入ったのは高校生のとき。そのころ知り合った年上の女性がいる。彼女に言われるままに、映画界でのあれこれを手紙に書いて送り続けた。

 彼女はやがてある劇団に入る。すると、岸さんの手紙を回覧にして劇団員が読めるようにした。あるスキャンダル誌にも手紙が載った。裏切られた思いがした。

彼女との音信はそれで途絶える。そして時が過ぎ、人生の晩年を迎えたころ、彼女の消息を知る。最終段階の認知症だった。

「90歳になった私」の脳裏に浮かんだのは、英語ができて知的で「遠い昔に見惚(みと)れた小柄なベコの姿」だった。

 ほかにも、初恋の人だった俳優の鶴田浩二を書き、瀬戸内寂聴の「うそ」に抗議をしたら、詫び状が届いたといった話が載る。

 91歳であろうとなかろうと、ものを書く人間は自分に対しても、相手に対しても突っ放したやさしさが要る、ということなのかもしれない。

2024年8月21日水曜日

同時代の死者たち

                      
 「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」。庭のフヨウの花=写真=が咲いた日、フランスから日本に訃報が届いた。その人はすっかりしわがより、白髪になっていた。

 俳優アラン・ドロンが8月18日、亡くなった。88歳だった。1960年に映画「太陽がいっぱい」に主演し、やがて世界的に知られるスターになった。

 1960年といえば、私は12歳。阿武隈の山里で、仲間と群れて遊び回る小学6年生だった。

マチに映画館はあったが、上映されるのは主に東映の時代劇か日活の現代劇だった。中村(萬屋)錦之助や大川橋蔵、石原裕次郎や小林旭、赤木圭一郎に引かれた。

この映画館で洋画の「太陽がいっぱい」を見た記憶はない。たぶん淀川長治が解説したテレビの「日曜洋画劇場」で見たのが最初だ。解説者が番組の最後に発する「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」が今も耳に残る。

小学生のころはちょうど、電波メディアがラジオからテレビに切り替わるころだった。夕方になると家(床屋)のラジオに耳を傾け、大相撲のテレビ中継は近所の家電商の店頭で見た。初代若ノ花のファンになった。

同時代の歌手や俳優の情報は、ラジオやテレビだけでなく、家にある芸能誌からも手に入れた。

小学校に入る前、小・中学校、高専時代、社会人と、年代によって引かれるプロスポーツ選手や俳優・歌手は変わった。

それからすでに半世紀以上がたつ。このごろ、少し年上の人たちの訃報に触れる機会が増えてきた。

今年(2024年)亡くなった有名人のなかには歌手園まり(80)がいる。「受験生ブルース」のフォーク歌手高石ともや(82)も亡くなったばかりだ。

高石ともやの歌はちょうど20歳のとき、まさに受験とバイトを掛け持ちしていたときにはやった。

園まりの場合は確か中学生のころ、伊東ゆかり、中尾ミエと合わせて、「3人娘」としてテレビを席巻していた記憶がある。

ほかに、東映の「お姫様」役で知られた丘さとみ(88)、「今は幸せかい」を歌った歌手で俳優の佐川満男(84)も彼岸へ渡った。

大相撲では「つり出し」の明武谷(86)、詩人では白石かずこ(93)。きょう(8月21日)の新聞には、同じ詩人の新川和江(95)の死亡記事が載った。

年齢的には叔父・叔母、あるいはちょっと離れた年上のいとこと同年代、といった感じだろうか。

いずれにしても、子どものころから青年期までのわが人格形成期=同時代を、ともに生きてきた人たちだ。

先行する世代だからこそというべきか、次から次へと彼岸へ旅立っている印象が強い。

こちらもまた彼らの訃報に接して、人生の晩年にいることを思い知る。彼らの死を「合わせ鏡」のように受け止める年齢になったのだ。

2024年8月20日火曜日

トンカツの日曜日

                      
 月遅れ盆にはカツオの刺し身の消費が伸びる。行きつけの魚屋さんもお盆休みを返上してこたえる。代わりに、お盆のあとの日曜日を休む。

毎年のことで、「来週(8月18日)は、カツオはありません」。8月11日の日曜日にいわれた。

「カツ刺しのない日曜日」である。「代わりに何が食べたい?」とカミサンがいうので、「トンカツ」と答える。

生協から取り寄せた「半商品」がある。揚げるだけでいいので、そう大きな負担にはならないだろう。カツ刺しならぬ「トンカツの日曜日」だ。

日曜日の夜はカツ刺し――そう決めているのは、もちろんカツ刺しが新鮮でおいしいからだ。

カミサンもそれで、何をつくるか悩まなくてすむ。日曜日だから「家事解放」の意味もある。

ところが不思議なことに、夕方、いつもの魚屋さんへ行く予定がなくなると、気持ちが糸の切れた凧(たこ)のようになった。

朝のうちはいつものように、夏井川渓谷の隠居へ出かけて少し土いじりをした。昼前には街へ下りて、いわき駅前のラトブに入った。

4階の図書館で本を返し、1階のスーパーでカミサンのあとにつきながら、昼食のサンドイッチなどを買って帰宅した。

昼食のあとは昼寝が待っている。「年寄り半日仕事」で、昼寝で土いじりとドライブの疲れをとると、また元気が戻ってきた。

午後3時にはカミサンのアッシー君をする。朝のうちに了解したが、いったん帰宅して昼寝をすると、「や~めた」といいかねない。そうならないよう、カミサンに念を押されていたので、こちらから出発を告げた。

行き先は鹿島街道のギャラリー創芸工房。「沢宏一透明水彩画展」が開かれている。たまたまカミサンの同級生が見に来ていた。

それからがなんとも中途半端な時間になった。いつもなら午後5時前後になると、魚屋さんへ「マイ皿」を持って出かける。そのルーチンが今回はない。

「海へ行こう」という声に従って、薄磯海水浴場へ向かう。台風7号がはるか沖合へ去り、太陽の光が戻ったこともあって、白波がまぶしく感じられた=写真。

そのうち、どちらからいうともなく、ソフトクリームが食べたくなった。「道の駅まで行くか」

ひたすら海岸道路を北上する。前日も海岸寄りの集落に住む後輩を訪ねた帰り、海岸道路を利用した。夏井川河口の先の海に虹がかかっていた。日曜日は晴れて、水平線がくっきりと見えた。

道の駅は相変わらずにぎわっていた。車を止めると、偶然、ソフトクリームをかかえた子供が目の前を横切って行った。

店内に、ソフトクリームは外で売っているという張り紙があった。それに従ってソフトクリームを手にし、脇のベンチでペロペロやった。

いつもはカツ刺しを買いに行く時間だ。それがなくなって、予定もしていなかったソフトクリームと道の駅までのドライブに変わった。

ドライブをしているときだけはエアコンが効いて涼しい。ソフトクリームもいっとき、のどをやさしく冷やしてくれた。

2024年8月19日月曜日

高温多湿の日々

                
 今年(2024年)の8月も半分以上が過ぎた。とにかく蒸し暑い。高温多湿は日本の夏の特徴とはいえ、後期高齢者にはこたえる。

 毎日、扇風機2台を動かしながら、茶の間で「文字読み」を続けている。例年この時期はそうだ。

一日に3~4本、何万字かでできた物語と向き合う。年寄りは家で静かにしているのが一番というから、文字読みはうってつけでもあるのだが、それでもじわっと汗がにじむ。

危険な暑さになる、エアコンをかけて熱中症を防ぐようにと、テレビが言う。扇風機しかないので、服装をできるだけラフにする。

昭和20年代の夏、阿武隈高地の実家で撮った家族写真を見ると、父親は私らと同じランニングシャツ姿だった。

実家は床屋なので、暑いときはそれで客の相手をしたのだろう。扇風機はあったかもしれないが、たぶんそれでは間に合わなかったのだ。

2010年9月に初めて台湾を旅行し、マイクロバスで台北の下町を通ったとき、父親を思い出すような光景に出合った。

家の庇(ひさし)が歩道まで伸びている。戸を全開した家の入り口で、じいさんがランニングシャツに半ズボン、サンダル履きの姿でイスに座っていた。

庇が連続して、通りはアーケード街のようになっている。日差しと降雨を避けるための台湾人の知恵だ。

今の私も、心理的にはこのジイサンに近い。上はランニングシャツではなく、半そでシャツ1枚。下は半ズボン。とにかく熱がこもらぬよう、汗がすぐ蒸散するよう、素肌をさらすようにしている。

 今年のいわき地方は多湿といっても雨不足だ。梅雨もそうだった。台風7号は暴風雨の心配があったが、同時に乾いた大地を潤す期待もあった。

山の方はけっこう雨が降ったらしい。8月17日には、川前で58.5ミリ。ところが、下流の平ではわずか0.5ミリだ。じめじめして暑いだけだった。

ほんとうの高温多湿は、アンコールワットのあるカンボジアのような国をいうのだろう。

雨季の終わりの9月に同級生と旅をしたことがある。曇っては雨、やんでは青空がのぞくものの、すぐまた雨という天気の繰り返しだった。

傘をさして遺跡を見学したが、着ているものがたちまち雨にぬれ、汗にぬれてびしょびしょになった。

アンコール(都)遺跡群の一つ、「タ・プローム」は、ガジュマルの一種、スポアン(榕樹)の根が遺跡のあちこちに絡みついていた=写真。

タ・プロームが建てられたのは12世紀末~13世紀初頭だが、都はその後、シャム(タイ)の攻撃を受けて荒らされ、放棄される。

人の手で維持・管理がなされなければ、石造建築物といえども本来の自然(密林)に覆われる。

雨の多い日本もまた、緑の繁殖がすさまじい。暴力的といってもよい。庭の草をむしるにしても、雨が必要だ。それがないことには、地面も硬くしまったままだ。

17日の午後遅く、にわか雨がきて庭に水たまりができた。が、土をほぐすほどではなかった。

2024年8月17日土曜日

台風と精霊送り

                     
   月遅れ盆の精霊送りはいわき市の場合、8月16日の早朝に行われる。あらかじめ集積所を決め、燃えるごみの規格袋に入れて盆の供物を出すように、市が回覧で通知する。

わが行政区では前日の15日、夕方5時に区の役員が出て県営住宅集会所の前庭を清掃し、供物を受け取るための祭壇を設ける。

 竹4本を調達し、縄を張った正面には杉の葉と赤いホオズキを飾る。竹は故義伯父の家の裏庭から切って来る。

翌日は朝6時から役員が交代で立ち合い、供物をあずかり、同9時前後に収集車が来るのを待つ。設営から片付けまで、すべてを区の役員6人で行う。

以上の作業はしかし、8月の晴天を前提にしたマニュアルといってもいい。このごろは8月に台風が来たり、荒れた天気になったりする例が増えてきた。

今のところ、準備も実施も悪天候で影響を受けたことはない。が、どっかり胸に暗雲が居座るようになった。暗雲を感じた最初が3年前の令和3(2021)年だった。そのときの拙ブログ。

――前線が停滞し、西日本では大雨が続く。いわき地方も南部を中心に雨が降り続いた。

8月15日も雨だったが、午後にはやんだ。精霊送りの準備が滞りなくできたことにホッとする。

精霊送りの朝も曇りだった。それはしかし偶然というものだろう。「雨のときにはどうしたら」と、役員の一人がいう。

コロナだけではない。異常気象がある。台風や土砂降りの8月15、16日も想定しないといけない――。

その2年後、去年(2023年)の月遅れ盆もまた、雨が降るとすぐネットで雲の動きを確かめた。

――セミもまた雨には敏感だ。雨が降り出すと、庭のセミの鳴き声がやむ。雨がやむと、すぐまた鳴き出す。

15日は次々に雨雲が現れた。セミも鳴いては沈黙し、沈黙しては鳴き出す。ネットで雨雲を何回チェックしたことだろう。

たまたま夕方5時前には雨雲が去った。予定通り草を刈り、竹を立てて精霊送りの準備を終えた。

翌朝5時半には、雨の心配はなかった。南から北へ雲が走っていく。時折、朝日が差す。これがきつい。すぐ汗がにじむ――。

今年は特に16日がきつかった。前日からネットで何回も雨雲の動きを追った。台風7号の影響で、早朝3時ごろから雨の予報になった。雨合羽を着ないといけないか。そんな思いにもなった。

たまたまというしかない。雨どころか、雲の切れ間から薄く青空がのぞく=写真。やがて曇ったかと思うと、雨が降り出す。しかし、これもさいわい微雨ですんだ。

雨風を想定して、祭壇は竹を2本飾り、縄でつないで杉の葉とホオズキを飾っただけにし、実際に供物を受け取るところは屋根のある集会所の玄関にした。

焼香台は横なぐりの雨を避けるために省略し、供物を受け取りながらそのつど説明した。

台風7号はそのころ八丈島の東にあった。雨合羽をはおらずにすんだ――そう一息ついていたら、今度は線状降水帯だという。もう本州は「亜熱帯」か。

2024年8月16日金曜日

無料歯科口腔健診

         
 75歳になったので、無料の歯科口腔健康診査をどうぞ――そんな通知が届いた=写真。80歳も該当するらしい。

 抜歯した親知らずの1本を除いて、まだ自分の歯だ。が、なんとなく違和感を覚える歯が複数ある。

 違和感が痛みに変わらないよう、朝だけでなく寝る前にも歯磨きをするようになった。ときには昼も、練り歯磨きなしでブラシを当てるようにしている。

 右上の親知らずを抜いたのはいつだったか。震災後もかかりつけの歯科医院を利用したことはある。が、抜歯はその前だろう。

 60歳になり、70歳になっても自分の歯はあるものだと思い込んでいたが、どうもそうではないらしい。

 後期高齢者になったとたん、異変に気づいた。右下の親知らずに穴があいた。歯茎に近いところに違和感があったので、舌でまさぐっていたら気づいた。同じ歯の上の方にも穴があいていた。

 右上の犬歯にも内側に穴があった。なんということだろう。痛みを感じるところまではいっていないが、放ってはおけない。

 心臓由来の血栓による脳梗塞と同時に、抗凝固薬(血液サラサラの薬)の長期服用による出血を防ぐための手術を受けた。

8月下旬にはおそらく、担当医からかかりつけ医院への復帰をいわれるはずだ。そうなったら、若いときから通っている歯科医院に連絡して、検査と治療を受ける。

「年とともに筋力や心身の活力が低下していくフレイル(虚弱)。放置していくことで介護が必要な状況になっています。早く気づいて対処することで、元の状態に戻るのもフレイルの特徴です」

「口腔」の働きの衰えが「オーラルフレイル」で、それはフレイルの早期の特徴でもあると、歯科健診を勧めるチラシにあった。

虫歯や歯周病の有無を検査するだけではない。口腔の機能も含めたさまざまな検査を実施するという。

脳梗塞と出血のリスクを抑えたら、次は歯だ。しかし、違和感を覚えるのは歯だけにとどまらない。

歯の検査と治療が終われば目。パソコンと向き合いすぎているせいか、今の遠近両用のレンズではピントの合わない領域が拡大した。

それに、レンズのコーティングもはがれて、視界全体が少し汚れたように見える。歩くときには眼鏡をはずした方がすっきりする。レンズを交換しないといけないようだ。

そのあとは……耳か。若いときから右耳は難聴気味だった。このごろは、トンチンカンな受け答えが増えてきた。

あるとき、テレビを見ていて、「ジョウトウク」という言葉が耳に飛び込んできた。「城東区? どこにあるんだろう」。すると、わきから「ジョウトウクではなく、京都府!」といわれた。そんなことが多くなった。

2024年8月15日木曜日

「再読」玩味

                     
 図書館から「新着図書」を借りて読む。新着でなくても、まだ読んだことのない本を借りる。読書の第一の楽しみはこれだろう。

 しかし同時に、若いときに読んだ本を再び手に取ってみる。当時を思い出しながらも、当時とは違った感慨にふける。時間の経過だけでなく、理解の幅も深度も異なっていることに気づく。

 5泊6日の入院中に2冊の本を読んだ。高萩精玄『福島人物の歴史第10巻 白井遠平』(歴史春秋社、1983年)と、『「いわき宇宙塾」講演記録集7 市制施行30周年 なぜ、いわき市は誕生したか』(いわき市、1998年)。

 前に読んだ本なので、中身はあらかた承知している。時間はあるが何もすることがないベッドの上では、いいヒマつぶしになった。

 その延長で家に戻ってからも、図書館の新着図書だけでなく、再読、再々読の本を手に取る。「熟読」玩味ならぬ「再読」玩味だ。

 読んでいるのは河原晉也『幽霊船長』(文藝春秋、1987年)と、監修浦田賢治・まんが監修石ノ森正太郎『まんが日本国憲法』(講談社、1996年)=写真=で、憲法の方は朝ドラ「虎に翼」の影響が大きい。

 どちらも目に留まったところを開いて、古い記憶を呼び起こしながら読む。「ああ、これはこういうことだったか」といった思いになることもある。

 日本国憲法はやはり、第14条に引かれる。「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

 「門地」がわからなかった。「家柄」、あるいは「身分」「貴賤」「出自」「階級」などのことだという。

 退院してから3週間余り。朝ドラは新潟編が終わり、東京編に戻った。火曜日(8月13日)には、主人公の裁判官佐田寅子が、大学で一緒だった山田よねに再会する。

 よねは弁護士になっていた。前は同じ大学の轟(弁護士)の事務所で働いていたが、みごと初志を貫徹した。

「轟法律事務所」から「山田轟法律事務所」へ。「轟」が先か、「山田」が先かはじゃんけんで決めた。

 その事務所の壁だかついたてに、憲法第14条が墨書されている。前も時折、この文章が登場した。それでこのドラマを貫いているのは憲法第14条ではないかという思いが強まった。

 一方の『幽霊船長』は戦後、日本の現代詩をリードした詩人鮎川信夫を身近に見てきた「弟子」による鮎川の評伝だ。

 私生活を明かさなかった鮎川の人となりや母親、妹らが登場する。10代後半から20代の終わりにかけて、鮎川の詩と評論をむさぼり読んだ。

そして、『幽霊船長』から鮎川の文章論の極致を知った。「生(ライフ)においては。あらゆる出来事が偶発的(インシデンタル)な贈与(ギフト)にすぎない。そのおかえしに書くのである。正確に、心をこめて、書く。――それがための言葉の修練である」

コラムを書くようになった中年以降、この文章を思い返してはかみしめるようになった。

2024年8月14日水曜日

前震・本震・余震

            
   先日(8月8日)の夕方、九州の日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生し、日南市で最大震度6弱を記録した。

南海トラフがらみでは初めて、「巨大地震注意」の臨時情報が発表された。1週間は平時よりも巨大地震の発生に注意する必要があるということらしい。

令和4(2022)年12月16日、「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用が始まった。それを知らせるチラシ=写真=が同5年1月、回覧網を通じて隣組に配られた。

そこで「前発地震」と「後発地震」を知った。3・11の場合は、2日前のマグニチュード7.3が前発地震、2日後のマグニチュード9.0が後発地震ということになる。

本震のあとに余震がくる。これは一般の人でも承知していることだ。が、本震の前にも地震があることを、東日本大震災のときに初めて知った。

平成23(2011)年3月9日は水曜日だったが、たまたま夏井川渓谷の隠居にいて、揺れを体験した。そのときの様子を3月10日付のブログに書いた。それを要約・再掲する。

――間もなく正午、というときに、家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたか、と思うくらいに、揺れは外からやってきた。

「地震かな」。軽い身震いのようなものがしばらく続いた。そのうち、全体が揺れ始めた。「やっぱり地震だ」。横揺れだった。長かった。

こたつで本を読んでいた。真正面の対岸は岩盤の露出した急斜面だ。県道も含めて、しょっちゅう落石がある。

地震の影響(落石)がないものか。目前の山に神経を集中した。見た目では、「崩れ」はなかった。

ラジオ(NHK)はすぐ特番に切り替わり、津波への警戒を伝え、臨海の役場に電話を入れて状況を聞き始めた――

これといった被害はなかった。それもあって、ブログをアップした翌11日、千年に一度ともいうべき超巨大地震に見舞われるとは思いもしなかった。

本震からちょうど1カ月後の4月11、12日の2回、今度はいわき市内を震源とする巨大余震が発生した。前震・本震・余震が胸中に深く刻まれた。

それからというもの、大きな地震のニュースに触れるたびに、前震を、余震を意識するようになった。

平成28(2016)年4月の熊本地震は、4月14日がマグニチュード6.5、同16日が7.3だった。14日は前震、16日が本震(後発地震)ということになる。この地震のときにも「あのとき」の記憶がよみがえった

今年(2024年)に入るとすぐ、元日に能登半島地震が起きた。そして、今度は日向灘の地震だ。

「大地動乱」は収まる気配がない。巨大地震が起きるとすぐ思い浮かぶのは、震源に近いところにある原発のこと。大きな地震のたびに不安を抱えて暮らすしかない、というのは苛酷すぎる。

2024年8月13日火曜日

台風が東北を横断

         
   「山の日」をはさんだ3連休最後の日、月曜日(8月12日)は朝6時前に起きた。台風5号の影響はどうか。いわきでは、雨はやんでいる。風もない。

台風は8日未明に発生した。最初は太平洋を北上するので、直接、列島に影響することはないと思われていた。

ところが、太平洋高気圧が発達して行く手を遮り、東北地方で西へと進路を変えて上陸する予報に変わった。これには驚いた。

 しかも、進路の中心に福島県が入っていた。それがやがて少しずつ北にずれ、12日朝6時のニュースでは、三陸沖から東北を横断するというふうに変わっていた。

 月曜日の朝は家の前の集積所にごみネットを出す。前日までは暴風雨を前提に、出すか出すまいかと逡巡していたが、外へ出ると雨も風もない。すでに出されていた刈り草の袋が少しぬれている程度だった。

 これほど何日も頭の中に居座っている台風は珍しい。とにかくスピードが遅い。それで、雨風の影響も特に大きいようだ。

8日には台風の影響かどうか、家の中を北から南へと強い風が吹き抜けていた。店と茶の間の間仕切りのれんが吹き流しのように揺れていた=写真。

 同日夕方には九州の日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生し、日南市で最大震度6弱を記録した。南海トラフがらみでは初めて、「巨大地震注意」の臨時情報が発表された。

 九州地方の人々には申し訳ないが、東北南端のいわきの人間にとって、今は地震・津波より台風の雨風が心配だ。

 というのは、日曜日(8月11日)の午後3時、スマホが突然鳴ってエリアメール(緊急速報メール)が届いた。パソコンにも逐次、防災メールが入った。

 台風5号が12日未明から朝にかけて、福島県に最も接近する。土砂災害や浸水、河川の増水・氾濫、暴風に警戒を――。

 いわき市全域に「高齢者等避難(警戒レベル3)」を発令した。夜間の避難は大変危険なので、高齢者や避難に時間がかかる人は、明るいうちに安全な場所へ避難を。各地区に避難所を開設した――。

 平地区は、避難所が総合体育館だ。区内会の役員をしているので、こうした情報を頭に置きながらも、家で様子を見るしかない。

それに、総合体育館はわが家から遠い。いざとなったら、「垂直避難」(2階への避難)をするしかない。

 で、覚悟して12日の朝を迎えたら、空は鉛色の雲に覆われていたものの、雨風は一休みしていた。

時折、パラパラッとくる。が、すぐやむ。まだまだ警戒は怠れないとはいえ、12日朝7時には、いわき市の「高齢者等避難」は解除された。ミンミンゼミは先刻承知のように、早朝から庭で鳴き続けている。

 台風5号は12日朝8時半ごろ、大船渡付近に上陸した。同日夜9時には東北を横断して秋田県能代沖にあるという。

 それよりなにより心配なのが台風7号だ。15日夕方には区内会の役員が出て精霊送りの準備をし、16日朝には受け付けをする。雨風に見舞われなければいいのだが。

2024年8月10日土曜日

マチのごみをヤマへ

                     
 東日本大震災に伴う原発事故が起きる前は、「燃やすごみ」として出される落ち葉を夏井川渓谷の隠居へ運び、堆肥枠に入れて畑の肥料にしたものだった。

平成21(2009)年の3月中旬に書いたブログがある。まずはそれを要約・再掲する。

――街中の公園のそばに住まいがあって、晩秋になるとケヤキの落ち葉を片付ける知人がいる。

公園をきれいに保つための奉仕作業だ。たまたまそこへ出くわしたときに、ごみとして出すのだと聞いた。もったいない。焼却されるなら山へ返したい。

乗用車のトランクと後部座席に落ち葉の入ったごみ袋を積めるだけ積んで夏井川渓谷の隠居へ運んだ。

カミサンの実家の庭にケヤキの大木がある。秋に降る落ち葉の量がすごい。前に大きな袋に入った落ち葉を乗用車で隠居へ運んだが、とても追いつかない。

庭に何袋もたまっていた。義弟が「軽トラで運んだら」という。農家ではないが、商売で軽トラも使う。

運ぶだけならコトは簡単。運んだ以上は落ち葉を堆肥枠に入れなくてはならない。大きな袋で10袋以上はある。

それに前年の夏、隠居の庭の刈り草を回収した畜産農家から生の牛フンが届いたばかり。

こちらは刈り草を提供する、代わりに牛フンをください。そういうリサイクルの約束で始めた物々交換だ。それも堆肥枠に投入して発酵させる必要がある。

落ち葉と牛フンと米糠とをサンドイッチにし、発酵を促す内城B菌もまいて散水した――。

原発事故以来、中止していたマチからヤマへの枝葉(えだは)の循環を、最近、思い出した。

というのは、「燃やすごみ」の日に出したわが家の生け垣の剪定枝が収集されずに残されたからだ。ならば、ヤマへ運ぶしかないか。

 剪定枝は市の規格袋だとすぐ破ける。代わりに、紙製の米袋に入れて出す。ずっとそうしてきたが、最近、急に厳しくなったらしい。

「このごみは収集できません」と書かれた黄色いステッカーが張られ、その理由として「市の規格袋で出してください」にチェックが入っていた。

規格袋は透明だ。それに入れて出せ、というのはわかる。が、なぜ今までよかった米袋がダメになったのか。

どこかで草や剪定枝に危険物でも混ざっていたのか。それでルール通りに透明な規格袋に入れて出せ、となったか。

「今までもこの状態(紙袋)で収集していましたのでよろしくお願いします」。カミサンが紙に書いて米袋に張り、再び剪定枝を出したら、やはり黄色いステッカーが張られ、市の規格袋にチェックが入っていた。

それではしかたがない。マチからヤマへ緑の循環を復活させるとするか。先の日曜日、車のトランクに積んで隠居へ運んだ=写真。

隠居の庭の境には剪定枝がちょっとした垣根のようになっている。それに積み重ねるだけだ。

やがて朽ちればキノコが生えてくるかもしれない。燃やせば灰を利用できる。循環のおもしろさがここにある。それでも、なんだかなぁ……という思いは消えない。

2024年8月9日金曜日

早朝の回覧配布

                     
 「しばらく重いものは持たないように」。カミサンがドクターに言われたそうだ。退院後の私のことである。

 「重いものって、どのくらいですか」。ドクターに直接聞くと、逆に持ってもいい目安を教えられた。「息が上がらなければいいんです」

 慢性の不整脈なので、少しムリをすると息が上がる。肺機能も十分とは言えない。どんなことをすると息が上がるかは、日常的に経験している。

 普通に歩いている分には、支障はない。しかし、車に米を積むとき、瞬間的に息が上がる。

米は5キロ、10キロの二つ。5キロ入りの袋一つだけならなんとかなるが、10キロ入りを抱えて歩くとハカハカする。

 月に3回届く回覧資料はどうか。退院後すぐ配った資料は、全戸配布ではなく、隣組ごとに1枚の回覧だった。

それが3枚あっても4枚あっても、回覧袋はほとんど重さを感じない。息は上がらなかった。

 ところが8月1日は偶数月なので、いわき市の広報と県の広報、さらに地域の体育祭のプログラムが加わった。広報は全戸配布、プログラムも体育協会協賛金を収めた世帯への限定的な全戸配布だ。

 隣組単位なら厚みはあっても息が上がる重さではない。しかし、複数の隣組を担当する役員さん宅に届けるとなると、重さは3倍にも、4倍にもなって息が上がる。

 そこで今回はカミサンの力を借りることにした。いつもは朝ドラが終わってから配りに行くのだが、酷暑の夏場は新聞配達よろしく、朝日が頭上に来る前に届けることにしている。

 そのため、5時半ごろに起きてカミサンに声をかけた。起きると私はすぐ糠床をかき回す。それと同じで、カミサンにはカミサンの朝の「儀式」があるようだ。

 店のそばに文庫(地域図書館)兼談話室がある。そこに用事があったらしい。すると、朝日が東側の窓を照らしていた=写真。

 まだ6時前だ。朝日は水平よりやや上から文庫に差し込み、それがうっすらと部屋の奥まで明るくしていた。その時間だからこそ太陽が見せる光のデザインだった。カミサンがパチリとやった。

 車で道路へ出る。朝日がまぶしい。担当する隣組の班長さん宅には、カミサンが回覧資料を持ってついて来た。

 中層の集合住宅では1階の郵便受けに入れ、役員さん宅では複数の隣組の資料を入れた袋ごと、玄関のわきに置いた。

 昔は定員通りの役員さんがいた。今は3~4人足りないので、限られた役員で兼務をしている。年齢的にも高齢者が多い。

 配布の肩代わりなどは夢のまた夢。ふだんからカミサンに配達の一部を頼んでいる。今回もまた、「重いもの」を理由に、カミサンに手伝ってもらった。

 抜き差しならない高齢社会の現実。それがまず区内会の役員の不足になってあらわれる、としかいいようがない。