2024年8月26日月曜日

明治の「五日市憲法草案」

                             
   明治初期、各地で自由民権運動と国会開設運動が展開された。併せて私擬憲法草案もつくられた。

政府はこれらを抑えこむため、明治14(1881)年10月、明治天皇の名で「国会開設の勅諭」を出し、同22年2月に帝国憲法を制定する。翌23年11月には、7月の第1回衆議院議員選挙を経て帝国議会が開かれる。

帝国憲法が制定されたことで、多くの私擬憲法草案は日の目を見ることがなかった。草案で有名なのは土佐の植木枝盛(1857~92年)が書いた「東洋大日本国国憲按」だが、ほかにも奥多摩の「五日市憲法草案」が知られる。

「五日市憲法草案」は昭和43(1968)年、色川大吉東京経済大学教授とゼミの学生らによって、旧家の土蔵から発見された。

その経緯と草案起草者千葉卓三郎(1852~82年)の足跡を記した本が、図書館のリサイクル本コーナーにあった。カミサンがそれを譲り受けた。

伊藤始・杉田秀子・望月武人著『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』(くもん出版、2014年)=写真=で、著者の3人はいずれも教員経験者だ。児童向けの本で、漢字にはすべてルビが振ってある。

五日市はどこにあるのか。まずはそこから探索を始める。東京都のほぼ西端、あきる野市五日市だという。

草案が眠っていた土蔵はそこからさらに山奥の深沢というところにあった。五日市を流れる秋川の支流・三内川の上流部で、いわきでいえば、夏井川渓谷で本流に注ぐ中川のようなものだろう。

ストリートビューで深沢地区を訪ねると、川も道も細い。いわきでいえば中川の上流部、川前・外門(ともん)地区にムラの雰囲気が似る。

リサイクル本によると、当時、深沢村の豪農深沢名生(なおまる)の長男権八が村長役を務めるかたわら、五日市学芸講談会の幹事となって自由民権運動を指導した。

五日市には「勧能学校」があって、現宮城県出身の校長がいた。その引っ張りで同郷の千葉卓三郎が先生を務めた(のちに第2代校長となる)。

千葉は教職のかたわら民権運動に取り組み、学芸講談会にも顔を出した。その過程で憲法草案を起草する。

草案の中身に立ち入る余裕はないが、現「日本国憲法」との類似点を記した第5章にはうなった。

五日市憲法草案は全204条からなる。その第45条は「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可(ベ)シ他ヨリ妨害ス可(ベカ)ラス(ズ)且(カツ)国法之(コレ)ヲ保護ス可シ」。日本国憲法の第11条(基本的人権の享有)にも通じる思想だという。

朝ドラの「虎に翼」をつい連想したのが、第47条だ。「凡(オヨ)ソ日本国民ハ族籍位階ノ別ヲ問ハス(ズ)法律上ノ前ニ対シテハ平等ノ権利タル可シ」

著者3人もまた、日本国憲法第14条(法の下の平等)とほぼ内容が同じことに感服する。

中央政府から見たら末端の、しかし時代から見たら先端の山奥で生まれた憲法草案。なんともいえない爽快さが脳内にしみわたる。

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