2024年8月2日金曜日

初めての新紙幣(下)

                                
   5泊6日の入院用に、いわきに関する本2冊を持ち込んだ。そのなかの1冊が高萩精玄『福島人物の歴史第10巻 白井遠平』(歴史春秋社、1983年)だった。

本の最後で、彼の死に伴う人となりや業績などを大々的に報じる地域紙「磐城新聞」に出合った。

 戦時体制下の昭和15(1940)年10月当時、いわき地方では磐城時報、磐城新聞、常磐毎日新聞、新いわき、常磐新聞の5紙が、日刊紙として競合していた。

磐城新聞がブランケット判のほかはタブロイド判で、最初に日刊紙へと踏み切ったのは磐城時報だった。大正8(1919)年3月のことである。

退院後さっそく、いわき市立図書館のホームページ内にある「郷土資料のページ」で、デジタル化された地域新聞をチェックした。

まずは磐城新聞から。遠平が昭和2(1927)年10月9日に亡くなると、11日付(当時は前日、つまり10日に夕刊として配達)で第一報を載せる。

12日付で続報、13日付で黒ワク(死亡広告)が載ったあと、15日付では通常2ページを4ページに増やして、まるまる遠平の特集記事を組んでいる。

競合他紙はどうか。常磐毎日新聞は11日付で第一報を、12、14、15日付で続報を掲載したものの、普通の扱いだ。黒ワクはなかった。

磐城時報には11日付の第一報から16日付まで続報が載る。13、14日付では黒ワク、15日付では会葬お礼の広告と、営業的なお付き合いとしては最も濃い。

平新聞も11日付第一報、12、13日付黒ワク、14、15日付続報とそれなりに扱っている。

 15日付の磐城新聞には、紙面そのものに黒ワクが施されている。新聞社として哀悼の意を表したものだが、通常ここまではしない。

 なかに遠平と交流のあった中央の財界人の談話が載る。常磐線敷設、炭鉱開発がらみといってよい。

5年前、新紙幣の発行が発表された。1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

そのとき、いわき民報が1面でこれを報じた。「スパリゾートハアインズを運営する常磐興産の前身・常磐炭礦は、明治17(1884)年に設立された『磐城炭礦社』が源流となっている。燃料調達の重要性から、渋沢は発起人の一人に名を連ね、会長に就任した」

地元に遠平がいてこそのつながりだった。遠平の特集記事の中で渋沢はこんなコメントを寄せている。

遠平を知ったのは40年前、炭鉱をおこすために地元にどんな人間がいるか調べたところ、遠平がいた。

「人望もあり、才幹もあり、地位も県会の常置委員と云う地方最高の人であった翁を得たならば、成功期してまつべしと思い」、湯本温泉の旅館で会ったのが最初だった。

さらに、遠平の人柄、話術などをほめながら、鉄道敷設にまい進し、「常磐線の開通をみたのは皆白井さんの賜物だと思います」と回顧している。北里だけでなく渋沢にも早く会いたいものである。

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