2024年10月31日木曜日

辛み大根の葉と人間の歯

                      
   夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギと辛み大根を栽培している。といっても、辛み大根は自生に近い。不耕起のうえに、ほとんど手をかけない。

 春に花が咲いて結実する。葉が枯れたところで種の眠るさやができる。それを茎ごと切り取り、束ねて物置につるしておく。

 前は月遅れ盆が近づくと、発泡スチロールのようなさやを割って種を取り出し、それをまいて発芽させた。

 ところが、そんなことをしなくても辛み大根は自然に発芽する。地面にこぼれ落ちたさやが、ときがくると消え、月遅れ盆が終わるころにはちゃんと芽を出している。

いわきの方言で「自然に生まれる」ことを「ふっつぇ」という。ふっつぇの辛み大根が年々増えているようなのだ。

今年(2024年)も「ふっつぇ」を期待して、何株かそのままにしておいた。すると、8月の終わりごろから発芽し、若葉を開き始めた=写真。

3畳間くらいのスペースに密生し、さらには周辺でも芽が出たので、先日、間引きをした。

これをおひたしにして食べたら、針のように細い葉柄が歯の間にはさまり、なかなか取れない。葉柄を楊枝でつついているうちに、左上の臼歯が欠けていることに気づいた。痛みはない。

食べ物は無駄にしない。それはいいのだが、小さいわりには硬い。歯がもろくなった人間にはよくないか、と思っているところへ友人がやって来た。

雑談するなかで鼻や歯の話になった。後期高齢者である。体のあちこちに不具合が起きてもおかしくない。

私は慢性の不整脈で薬を飲んでいる。血栓による脳梗塞と抗凝固薬の服用による出血のリスクを抑えるため、入院して予防的な手術を受けた。

友人も入院を経験したという。「なんか変な匂いがする、と思って診てもらったら、副鼻腔炎、いわゆる蓄膿症だった」

私は手術のあと、歯科医院に通い出した。右上の犬歯と右下の親知らずに穴があいていた。

福島県後期高齢者医療広域連合から、75歳と80歳を対象にした歯科口腔健診(無料)の案内も届いた。

犬歯は穴に詰め物をして終わった。親知らずは歯茎から浮いているうえに、ボロボロになっている。先日、それを抜いた。

すると、今度は前述の左上の臼歯が欠けた。歯も一斉に弱ってきたらしい、次から次に不具合が起きる。治療しては別の歯が――を繰り返すのだろうか。

友人も歯と歯の間にすき間ができて、食べかすがはさまって困るという。いずれは総入れ歯か――。あらためて歯科口腔健診の案内チラシをながめながら思った。

 健診では、虫歯や歯周病の有無だけでなく、口腔の機能も含めたさまざまな検査を受ける。もう半分、検査が残っている。通院は第三の歯の治療で長引きそうだ。

辛み大根はまだ間引きしないといけない。葉のとげとげや筋っぽさを減らすには、いったん塩でもんで少し置いておくといい、とネットにあった。

歯は歯として、今度はそれを試してみようか。でも、硬くておろしにしかならない大根だからなあ……。

2024年10月30日水曜日

植物には根がなかった

                              
   菌根菌は陸上植物の約8割と共生関係を結んでいる。菌根が地球の緑を支えている――と知ったときには驚いた。

それまでは、キノコ図鑑で学んだ固定観念に支配されていた。植物は生産者、動物は消費者、菌類は分解者。シイタケやヒラタケのような木材腐朽菌がキノコの主流と思っていた。

ただし、菌類は分解するだけではない。松とマツタケのような菌根共生もある。菌類関係の本を読めば読むほど、モヤモヤした思いがふくらんでいった。

 斎藤雅典編著『菌根の世界――菌と植物のきってもきれない関係』(築地書館、2020年)が、そのモヤモヤを吹き飛ばしてくれた。

 まず菌根の意味だが、植物の根と菌類が共生して一体化した状態をいうそうだ。冒頭の共生関係を『菌根の世界』で学び、蒙(もう)を啓(ひら)かれた。

具体的にはこういうことだ。菌類が土中のリン酸や窒素を、菌根を通して宿主である植物に供給する。宿主である植物は光合成で得られた炭素化合物を、菌根を通じて菌類に供給する。

なぜそういう関係が生まれたのか。マーリン・シェルドレイク/鍛原(かじはら)多恵子訳『菌類が世界を救う』(河出書房新社、2022年)=写真=を読んで合点がいった。

サブタイトルは「キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力」。その効能としての食用・発酵・醸造などを詳述する。

同書によると、植物は約5億年前、菌類の助けを借りて陸に上がった。植物が出現する前の陸地は焦げて荒れ果てていた。温度は大きく変動した。

そのころの地球上の生命はほぼ水生生物だけだった。暖かく浅い海や沼は藻類や動物に満ちていた。

陸地は光合成ができる生物には大きな可能性を秘めていた。が、陸生植物の祖先である藻類は根を持たなかった。

その藻類が、すでに存在していた菌類と新たな関係を築いて陸に上がる。この同盟関係が現在の菌根と呼ぶ関係に進化したのだという。

言い換えれば、植物が独自の根を進化させるまでの数千万年間、菌類は植物の根の役目を果たした。今日では植物の9割以上が菌根菌に依存しているのだとか。

植物の8割どころか9割以上、つまり圧倒的多数の植物が根を介して菌類とつながっていた。

そして、その関係の始まりが5億年前だったこと、水中から陸に上がった最初の植物には根がなかったこと、菌類がその根の役目を果たしたこと……。菌根菌へと進化してきた植物と菌類の原初的な姿がようやく見えてきた。

序章ですでに核心に触れている。――菌類は10億年以上そうしてきたように生命のありようを変えている。

岩石を食べ、土壌をつくり、汚染物質を消化し、植物に養分を与えたり枯らしたりし、宇宙空間で生き、幻覚を起こし、食物になり、薬効成分を産出し、動物の行動を操り、地球の大気組成を変える。

菌類は私たちが生きている地球、そして私たちの思考、感覚、行動を理解するためのカギになる――。キノコは菌類のほんの一部の姿でしかなかった。

2024年10月29日火曜日

ネギが発芽

                             
 ネギには秋まきと春まきがある。夏井川渓谷にある小集落の「三春ネギ」は秋まき、いわきの平地の「いわき一本太ネギ」は春まきだ。

それぞれの栽培農家によれば、種まきの時期は10月10日(渓谷)、4月10日(平地)だという。

必ずその日でなければならないわけではなく、その日を目安にするということだろう。

渓谷の隠居の庭で三春ネギを栽培している。今年(2024年)は夏にネギ坊主から採取した種を冷蔵庫で保管し、10月第2日曜日の13日、畳半分くらいの苗床に種をまいた。

1週間後の20日には早くも土の表面を割って芽が出かかっていた。2週間後の27日には、髪の毛ほどの太さの芽ネギが列をなしていた。

丈は3~5センチ。先端に種の黒い殻を付けているものもある=写真。思った以上に発芽率はよさそうだ。

ネギの発芽はおもしろい。ネギ栽培をしていてなにが楽しいかというと、この発芽からピンと立つまでの一連の変化だ。前にブログで書いた文章を再掲する

――黒い殻を破った緑色の芽(根と茎の部分がある)はいったん上向きに伸び、やがて根の部分が屈曲して下へ、下へと向かっていく。

茎は屈曲した状態で上へ伸び、ヘアピン状のまま地上に現れる。それに似たかたちを探せば、電気抵抗の単位を表す「Ω」(オーム)、あるいは逆「U」の字だ。

 その次の段階になると、土のふとんをかぶっていた黒い種がまた、茎に引っ張られて地表に出てくる。

初期の芽ネギは頭に黒い殻をのせているために、数字の「7」か、記号の「?」のように見える。さらに次の段階に入ると、黒い殻は脱落し、茎も根も一直線になる――。

掲載の写真では、「7」の状態が終わりかけ、やがて黒い殻が脱落するだろうという状態の芽ネギが多い。

今年の種は例年より小さめのものが多かった。カラの種とごみを取り除くために、一度金網のボールに入れて「水選」をした。

底に沈んだ種だけを新聞紙に広げ、陰干しをして乾燥剤とともに小瓶に入れ、冷蔵保管をした。種が生きていることは確信していたが、やはり発芽するまでは心配だった。

苗床が狭いこともあって、種は半分近く余った。ネギの種は、2年は持つ。来年用に小瓶ごと、隠居の冷蔵庫にしまった。

あとは防寒と雑草対策だ。芽が伸びてきたら、もみ殻を苗床に敷く。越冬する芽ネギのふとんになる。よけいな草の発芽も抑えられる。

ネギは「自産自消」が目標で、晩秋から師走にかけてはネギを収穫し、何本かは採種用に残しておく。

越冬したネギは春に薹(とう)立ちをする。やがて先端にネギ坊主ができる。それを摘んで種を採る。

今年のネギは育苗に失敗した。ちゃんとした苗が少なかったために、定植したのはわずかしかない。越冬させて種を採ることを考えれば、試食できるのは20本ほどか。

種採りは大事だが、食べることはそれ以上に大事だ、とわかってはいても、寒さに負けて追肥を怠った。この冬は寒くても手を抜けない。

2024年10月28日月曜日

NHKも悩む日本語

                              
   NHK放送文化研究所の『NHKが悩む日本語』(幻冬舎、2023年)=写真=を読んで思った。

言葉に悩んでいるのはNHKだけではない。暮らしの現場ではだれもが悩んでいる。きょうのブログのタイトルは、それで「NHKも悩む日本語」にした。

 NHKには、全国の放送局から飛び込んでくる言葉の相談に、すぐさま回答する言葉の専門家チームがある。でないと生放送に間に合わない。

で、「どのようなことばを使えば多くの人に違和感なく内容を伝えることができるか」に腐心していることを、事例をあげて紹介する。

たとえば、「たわわ」。「たわわに実った落花生」という表現は使えるのか、という問い合わせには、「原則として、土の中の収穫物には使わない」と答えている。「たわわ」とは「枝がたわむほど多く実をつける」という意味だからだ。

もう一つ、「ほぼほぼ」。正確に事実を伝える場面では、「ほぼほぼ」は使わない方がいいのだとか。

「ほぼほぼ」は「ほぼ」を強調した言い方で、言い切りたくないときの婉曲表現として用いられる場合もあるようだ、という。

 それぞれの文章の末尾に執筆者名が記される。「たわわ」も「ほぼほぼ」も滝島雅子とあった。

朝・昼・晩とNHKのローカルニュースを視聴してきた人間には懐かしい名前だ。若いとき、福島放送局のアナウンサーだった。

それからの連想だが、東京発の番組には福島局経験者が少なくない。糸井羊司、片山智彦、栗原望、今井翔馬、安藤結衣……。ほかにもいるが、福島の視聴者としてはなにか知り合いが頑張っているような気持ちになる。

と、ここまで原稿をつくった土曜日(10月26日)の朝8時、NHKのBSでワールドシリーズの生中継が始まった。

大谷翔平を見たい。「NHKの日本語」もチェックしたい。パソコンでの打ち込みを中断して試合に見入った。

試合が始まる前、人で埋まりつつあるスタンドの映像に合わせて、アナウンサーが次第に「観客のボルテージが高まってくる」と語った。

ボルテージは「上がる」ではなく、「高まる」のか。すぐネットで検索すると、「ボルテージが高まる」は感情やエネルギーが高まる様子を比喩的に表現した言葉で、スポーツの試合やコンサートなど、興奮する状況でよく使われるとあった。

アナウンサーはそのキャリアのなかで、先輩あるいは言葉の専門家チームから、ボルテージが「上がる」「高まる」の区別を教わったに違いない。

そして、「ほぼほぼ」。これも2回出てきた。アナウンサーか解説者かはともかく、ゆるやかな場面では、NHKも「ほぼほぼ」は許容範囲内にあるということなのだろう。

生中継の開始から5時間。ドジャースが延長10回裏、逆転サヨナラ満塁本塁打で初戦をものにした。

その瞬間、私もボルテージが上がった。「高まった」ではまどろっこしい。翌日はしかし、大谷負傷で一気にボルテージが下がった。

2024年10月26日土曜日

秋はハヤトウリ

                     
 日曜日(10月20日)は、昼前、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。そのあと左岸側の山を越えて下川内(川内村)へ行き、旧知の娘さんが経営するカフェ「秋風舎」でカレーを食べた。

 一休みしたら国道3999号を利用していわきへ戻るだけ。そう思っていたら、カミサンが上川内にある「直売所へ行ってみようよ」という。

川内の地図が頭に入っているかどうかはわからない。が、直売所はすぐそこにある、とでも思っているようだ。いわきでいうと、神谷の隣に草野があるような、そんな感覚だろうか。

カフェのそばを流れる木戸川を起点にすれば、平坦ながらも下流(下川内)から上流(上川内)の中心集落までさかのぼることになる。それだけでも結構な距離だ。しかたがない。上流右岸にある直売所「あれこれ市場」へ車を走らせた。

川内村ではこのところずっと道路改良工事が続いている。田んぼの中のバイパス道路(県道小野富岡線=国道399号)も開通した。頭の中の道路地図を更新しながら、直売所に着いた。

カミサンは味噌漬けなどを、私は袋に3個入ったハヤトウリを買った=写真。川内の漬物は、いわきの道の駅よつくら港でも売っている。「川内村漬物研究会」のラベルが張られている。川内の直売所のも、もちろんそうだ。

川内村と隣接する町で生まれ育ったので、味噌漬けやシソの葉だけで赤く染めた梅干しにはつい手が伸びる。ハヤトウリは、昔は食べたことがなかった。わが家では新しい食材で、私が糠漬けにする。

ここ何年か、秋が深まるとお福分けのハヤトウリが届く。夏のキュウリの糠漬けから冬の白菜漬けに切り変わる間の、「つなぎ」の漬物でもある。

しかし、まだ納得のいく糠漬けはできない。ブログには失敗した記録が載る。それらを参考にして、今年(2024年)もハヤトウリの糠漬けに挑戦した。

まずは、皮をむくかどうか。見た目でも小ぶりで軟らかそうだ。むかずに四つ割りにして、糠床に入れた。

 1回目は24時間、2回目はプラス半日で36時間。どちらも漬かっていたが、36時間の方がご飯のおかずにはよさそうだ。

癖のない味とやわらかさ、ハヤトウリの魅力はこれだろう。硬いものが食べづらくなった年寄りにはむいている。抵抗なく味わえる。

 一番大きいのは真ん中で胴切りにし、さらにそれを四つに割って漬けた。時間は24時間ではなく、上半分は36時間、下半分は48時間にする。

ハヤトウリは、糠漬けだけではない。味噌漬けもいける。去年のことだが、三和町(いわき市)の「ふれあい市場」でそれを買った。

細かく刻まれた味噌漬けのハヤトウリをごはんにのせて口にしたときの、味噌の香ばしさ、しんなりとした歯ごたえが今も記憶に残る。

 「ふれあい市場」には間もなく白菜が並ぶ。ハヤトウリの味噌漬けがあれば、白菜と合わせて買う。

そして、白菜を漬ける。糠床は春まで眠らせる。川内のハヤトウリを食べながら、そんな季節がめぐってきたことを知る。

2024年10月25日金曜日

ヒューズ詩集『カラス』

                              
  図書館の新着図書コーナーに「カラス」の文字が躍っていた。よく見たら、『テッド・ヒューズ詩集 カラス――その生と歌より』(木村慧子・山中章子訳=小鳥遊書房、2024年)とあった=写真。「小鳥遊」は「たかなし」(鷹がいない?)と読むらしい。

 テッド・ヒューズ(1930~98年)はイギリスの詩人だ。名前は聞いたことがあるが、作品を読んだことはない。カラスを題材にどんな詩を書いているのか、興味がわいた。

さっそく読み始めたのだが……。結論からいうと、鳥類としての、あるいは生物としてのカラスは、まず登場しない。

それを期待した分、見事に裏切られた。そうではなくて、カラスの姿を借りた詩人の心象そのものと受け取るべきなのだろう。

「ヒューズは動物詩を数多く残したが、とりわけ鳥、なかでもカラスを描いた詩は多い」「この詩集のカラスは、カラスという仮面をかぶったヒューズ自身なのだともいえる」と、訳者解説にもある。

いささか面食らっているとき、現実のカラスの「いたずら」、いや「遊び」を目撃した。鳥としての、生物としてのカラスの賢さにあらためて感心した。

カラスは樹上だけでなく、電柱にも営巣する。停電の原因になるので、電力会社はカラス除けを設置する。

わが家の近くにあったのは黒いお玉を十字に四つ付けたような風車で、風を受けると回転する。今は黄色い風車が主流のようだ。

先日、近所のコンビニの前で知人を待っていたら、頭上からカラスの鳴き声が降ってきた。見上げると道路向かいの電柱にカラスが止まっている。

そばには黄色いカラス除けの風車があった。微風が吹くだけで風車は回る。風車に初めて遭遇したとき、カラスは「なんだ、これは?」といぶかしがったにちがいない。

が、今はなんとこの風車を遊び道具にしている。風車にくちばしを当てて振り、黄色い風車がくるくる回るのをながめている。止まるとまた同じ動作をして風車を回す。

ある年、行政区内にあって、だれの土地でもない場所に立っている電柱の件で、東北電力の担当者がわが家へやって来た。

用事は簡単だった、行政区に借地料を払うための書類に記入して判を押した。それから少し雑談をした。

盛り上がったのは、カラスに話が及んだときだ。カラスは洗濯物干し用のハンガーを巣の材料にすることが多い。

電力会社は電柱の巣を見つけると除去するのだが、そしてまたいろいろ手を打つのだが、カラスはそれにもすぐ慣れる。いたちごっこだという。

先日見た遊びは、電柱のカラス除けを逆手に取ったものだった。カラス詩集の欲求不満はそれで解消された。

肝心の詩集の方だが、「カラス 下界に降りる」の中にこんな詩句があった。カラスは「星が、暗黒のなかに蒸散していくのを見た。虚空の森のキノコとなって神のウイルス、キノコの胞子を曇らすのを見た」。

キノコの胞子は神のウイルス、か――。特異な比喩である。これだけでも詩集を読んだかいがあった。

2024年10月24日木曜日

久しぶりの学習発表会

                     

   地元の小学校で学習発表会が開かれた。学区内には八つの行政区がある。区長や同窓会関係者などが招待された。この何年か、コロナ禍で来賓の招待が中止になっていた。久しぶりの観覧である。

体育館のステージが発表の場だ。これは従来通り。ところが、観客である保護者は学年ごとに入れ替わる、という方式に変わっていた(でないと、収容しきれない)。

 逆に言えば、保護者は自分の子どものステージしか見られない。1年生から6年生まで、すべてのステージを観覧できるのは来賓だけ、ということになる。

 今はだれもがスマホで動画を撮り、SNSにアップしようと思えば簡単にできる、そんな時代になった。

 保護者が入れ替わるたびに、個人情報保護の観点からSNSに投稿するのは遠慮してほしい、というアナウンスが流れた。もちろん、撮影禁止ではない。

自分の子どもの演技や演奏を記録に残したい。一方で、子どもたちが演技に集中できる環境を維持したい。両方の思いを満たす会場レイアウトと入れ替えだったのだろう。

 5月には運動会に招待された。そのときも、「あれっ」と思ったことがある。「運動会」が「スポーツフェスタ」と改称されていた。

だから、ほんとうは運動会ではなく、スポーツフェスタと書くべきなのだろうが、古い人間にはやはり運動会の方がピンとくる。

 あらかじめ学習発表会のプログラム=写真=で内容を把握しながら、劇を見、演奏を聞いた。

1年生は劇「がっこうのきらいなおうさま」を披露した。学校嫌いな王様に学校の楽しさを、実例を示しながら教える劇だ。入学して半年。子どもたちの一生懸命さが伝わってきて、見入った。

 運動会、いや「スポフェス」のときにも感じたことだが、今の小学生のダンスは動きが速い。

 2年生のダンス表現を見ながら、アイドルグループの一糸乱れぬ踊りを思い出した。ゴーゴーダンスが精いっぱいの人間には、別の国の、別の時代の、別のダンスを見るような感じがした。

 3年生は劇、4年生はダンス・合唱奏、5年生は表現運動。そして、6年生は劇「千と千尋の神隠し」だった。

 「千と千尋――」は2時間半の名作アニメを、自分たちで30分の台本に仕上げ、必要な道具もすべて自分たちでつくり上げたという。

迫力の「湯婆婆(ゆばーば)」をはじめ、「釜爺(かまじい)」や「カオナシ」たちのしぐさや小道具がおもしろかった。

「小学校最後の発表会。みんなで力を合わせて頑張ってきた姿を、お家の人に見せたい!」

プログラムの文章を読んでいたこともあって、ラストシーンになるとなぜか目頭が熱くなった。

2024年10月23日水曜日

白昼夢

                     
 日曜日(10月20日)は晴れて冷たい北風が吹き荒れた。小名浜の最高気温はなんと、日付が替わった1時の18.8度だった。前日の夏のほてりが夜更けまで残っていたのだろう。

わが行政区ではこの日朝6時半から1時間ほど、家の周りをきれいにする総ぐるみ運動を実施した。日中の最低気温はちょうどその時間帯の13度台だった。

冬型の気圧配置になったこの日、清掃を終えて夏井川渓谷の隠居へ向かうまでにいろんな動物と出合った。

まずは平・神谷~平窪の田んぼ道を通る。そのあとは国道399号~県道小野四倉線を利用する。

 上神谷・鎌田から大室へと折れてすぐ、雄のキジが道端に現れ、車の直前を横切るようにして反対側へ飛び立った。

 通り過ぎたばかりのT字路では住民が出て側溝の泥上げをしていた。ふだんとは異なる「ざわつき」を感じて不安になったのだろうか。家が点在するその集落でキジの姿を見るのは初めてだった。

 大室から中塩に入り、平窪を抜けて国道399号に出ると、タヌキの死骸が路上に横たわっていた。

 それを避けて進む。と、今度はカラスが何羽も路上に集まっていた。車がギリギリまで接近したところでパッと散る。路上には小さな生き物の死骸。たぶんイタチだろう。

 小川・三島の夏井川で今季初めて、8羽のハクチョウを見たのは10月13日の日曜日だった。

飛来したばかりのハクチョウは落ち着かない。すぐどこかへ飛び立ち、また舞い戻る。これを繰り返しながら、徐々に定着する。それから1週間後の日曜日、朝9時時点で三島には3羽が羽を休めていた。

動物も(植物も)人間と同じ自然環境の中で生きている。たまたま事故で姿をさらし、寒波と共に飛来したので、人間だけではない命の営みを知ることになった。

隠居ではいつものように土いじりをして、庭を一巡した。キノコの生(な)る木を見ると、1週間前にはなかったキノコが傘を広げていた。長いはさみで柄ごと切り落とすと、不食のアミヒラタケだった=写真。

それから間もなく、庭で剪定作業をしていたカミサンに道路から声がかかった。見知らぬ年配のおじさんだった。

カミサンがすぐ私を呼ぶ。柵をはさんで立ち話をする。マツタケハンターらしいことがわかった。

マツタケをカネに換えようとは思わない。昔から人にあげるために採ってきた、という。バッグに入っているマツタケをのぞくと、強烈な香りが鼻を突いた。

マツタケハンターは、普通は自分のシロを明かさない。おじさんは違っていた。しかも山に入ったのは朝8時ごろだという。

野生キノコの摂取と出荷は、いわきでも制限されている。おじさんもそのことは先刻承知だろう。

立ち話から3日たった今は、あのおじさんはなぜ私たちにシロの話をしたのか、あれはキツネかなにかが演じた一瞬の白昼夢ではなかったのか――そんな気がしてならない。

ただし、キツネに化かされたとしても、マツタケの「世界」と「今」を知るいい機会にはなった。

2024年10月22日火曜日

大阪障子

                      
 玄関と茶の間の境に障子戸がある。夏場は玄関と障子戸、さらには茶の間のガラス戸を開け、2台の扇風機をかけて暑さをしのいだ。

 今年(2024年)はしかし、「しのぐ」といったレベルの暑さを超えていた。9月下旬まで酷暑が続いた。

10月に入ると今度は冷たい長雨に変わり、朝晩どころか日中も肌寒く感じられるようになった。暮らしのリズムが一挙に夏から秋へと変わった。

歳時記風にいえば、立秋を過ぎると「暑中」は「残暑」に代わる。残暑は9月に入っても衰えることがなかった。

小名浜で最高気温が30度以上の真夏日を記録したのは、9月だけで10日あった。山田は、これが15日に及ぶ。夏が長かったわけだ。

それでも太陽の動きは止まらない。次第に日暮れが早くなり、夜明けも少しずつ、少しずつ遅れていき、気づいたら起きるのは6時ごろ、寝るのも1時間ずれて9時ごろに変わった。

起きるとすぐ玄関を開け、体で外の空気を感じながら新聞を取り込む。それから糠床をかき回す。

朝食後は薬を飲み、なにもなければ茶の間でパソコンと向き合い、疲れると横になって本を読む。

夏場はTシャツに半ズボンか、「孫」の親から贈られた通気性抜群の甚兵衛で過ごした。

9月後半からはこれが長ズボンに代わり、昼寝も足と腹を覆うタオルケットが必要になった。10月半ばには電気マットをオンにした。

 夏はしょっちゅう、冷蔵庫を開けて冷たい水を飲んだ。これが実にうまかった。今は、冷蔵庫には水はない。直接、水道の蛇口をひねって水を飲む。

9月末には街の食堂でラーメンを食べた。小雨が続いてあったかいものが食べたくなったのだ。夏以降では初ラーメンだった。

茶の間の障子戸は「大阪障子」だという。10月中旬に、カミサンがしまっておいた小障子を持ってきて、はめた=写真。

下から2段目にガラスがはめられている。その上下に小障子が4枚はまる、夏は小障子をはずすので、玄関を開けても障子戸を閉めておけば来客がわかる。風も通り抜ける。人間と同じで、家の中も「衣替え」が必要なのだ。

大阪障子という言葉は、今回初めて聞いた。ネットにアップされている解説によると、大阪格子ともいうそうだ。

二重構造の建具で、夏は小障子をはずす。冬はそれをはめて気密性を高め、外からの寒気を遮断する。

以前は、というのはもちろん在来の木造建築のことだが、店の表と裏、茶の間と台所の境などに多く見られたそうだ。

外からは内部が見えにくく、内部からは外が見えるので、商家などでは重宝したということだ。

 わが家の大阪障子は、最初からそこにあったのだろうか。よく覚えていない。どこからかカミサンが手に入れて、普通の障子戸と取り換えたのではなかったか。

 いずれにしてもきめ細かで、すぐれた建具にはちがいない。風土に合わせた和の職人の創意とウデの巧みさに、あらためて感心した。

2024年10月21日月曜日

日替わりで夏から冬に

                         
   10月20日の日曜日は、朝6時過ぎに起きた。戸を開けたとたん、寒風が吹きつけてきた。

前日の土曜日は汗ばむ陽気だった。いわき市山田町では、最高気温が30.3度の真夏日になった。

 夏から冬へ――。いきなり気温が下がり、体が悲鳴を上げた。長そで1枚ではとてもしのげない。急きょ、ジャンパーを引っ張り出して行政区内を巡った。

この日早朝、住民総出で一斉清掃が行われた。いわき市が毎年春と秋の2回実施している、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動の一環だ。

私は区の役員のほかに保健委員を兼務している。参加人数とごみの種類を記した実績報告書(はがき)を市に出して初めて、私の総ぐるみ運動が終わる。

実施計画書の提出に始まって、ごみ袋・土のうの受け取り、実施日の回覧・ごみ袋配布と、事前の準備は1カ月に及ぶ。

まずは清掃を実施中の区内を一巡して、おおよその参加人数を把握する。さらに、作業が終わったあと、指定した集積所を回ってごみ袋の中身をチェックする。

ごみは、燃やすごみ・草木類・剪定枝・燃やさないごみ・土砂の五つに分類される。土砂は土のうに入れるので、一般のごみとは別の1カ所を集積所に指定した。

一般のごみについては、あらかじめ4項目の記入スペースを設けた手づくりの「調査表」を用意し、集積所を回りながら中身と袋をチェックした。

調査表をつくってからは事務処理が楽になり、朝8時前にははがきを投函して、いつもの日曜日を楽しめるようになった。

今年(2024年)もやや遅めの朝食後、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。少し土いじりをして庭を一巡すると、11時近くになった。やはり風が冷たい。今季初めて首にマフラーを巻きたくなった。

朝から忙しかったので、昼食はどこかのんびりできるところで――。「海まで行く?」「いいね」となったものの、薄磯のカフェ「サーフィン」は、第3日曜日は休みだったはず。「では、川内だな」

亡くなった陶芸家の友人の家が下川内の木戸川沿いにある。娘さんが2年前、自宅敷地内にある古民家「秋風舎」をカフェに改装した。

海(薄磯)のカフェも、山(川内)のカフェも、隠居からの距離と時間はそう変わらない。

隠居から夏井川の支流沿いに「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)を駆け上がり、川前から下川内へ抜けて、ほどなく秋風舎に着いた。

囲炉裏では炭火がはぜていた=写真。「昨日は窓を開け、今日は初めて火をおこした」のだという。

2年前も同じように総ぐるみ運動を終えて隠居へ行き、昼はお祝いを兼ねてプレオープンしたばかりの秋風舎を訪ね、カレーを食べた。それを思い出した。

炭火をながめながら、せわしかった朝の総ぐるみ運動を振り返る。冬のような寒さが参加人数とごみ袋の数に影響したのでは……。人数も、ごみ袋の数も、この何年間のうちでは最も少なかった。

ふだんから清掃をしているので、ということもできる。が、高齢社会のあらわれだとしたら、という思いもぬぐいきれなかった。

2024年10月19日土曜日

年に一度の記者会見

                      
   水曜日(10月16日)は、朝焼けがきれいだった=写真。雲も多かった。予報通り曇りの一日になった。

夕方は夕方で、燃えるような夕焼けになった。暗くなってから西空の金星と紫金山・アトラス彗星を探したが、雲にさえぎられて見えなかった。

この日、午前中は区内会の仕事をこなし、午後は市庁舎の記者クラブに出向いて吉野せい賞(いわき市の文学賞)の選考結果を発表した。

 記者会見は当初、前日15日の火曜日に行われる予定だった。ところが、急に衆議院が解散し、15日に総選挙が公示された。そのうえ、総理がいわき市で第一声を上げることになった

記者たちは公示初日の立候補届け出と総理の第一声取材に追われることから、15日は会見どころではなくなった。

会見を仕切る広報広聴課と会見を予定している文化交流課などが調整して、一日延期が決まった。

吉野せい(1899~1977年)は同市小名浜出身の作家だ。少女時代から文才を発揮したが、詩人の開拓農民・吉野義也(三野混沌)と結婚してからは、筆をおいて家業と育児に没頭した。

夫が亡くなったあと、70歳を過ぎて再び筆を執り、短編集『洟をたらした神』で田村俊子賞・大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

いわき市はせいの業績を記念して、新人の優れた文学作品を顕彰するため、昭和53(1978)年、吉野せい賞を創設した。表彰式は例年、せいの命日の11月4日前後に行われている。

せい賞関連の行事は、同賞運営委員会が主催する。それとは別に選考委員会があって、募集期間が終わった月遅れ盆以降、各選考委員が全作品に目を通して1次選考作品3編、青少年特別賞候補1編を選ぶ。

このあと9月下旬に選考委員5人が顔をそろえて議論し、各賞を決める。それを10月初旬の運営委員会に報告し、了承されて初めて正式に賞が確定する、という流れだ。

選考委員の一人なので、今年(2024年)も運営委員長らと会見に臨んだ。現役時代は取材する側だったが、今は年に一度だけ会見する側に回る。

 今年は正賞(せい賞)に沢葦樹さんの「カノープスを見ていた少年」、準賞に一橋清高さんの「災禍」が選ばれた。奨励賞は伊藤晴美さんの「空色チェリー」、松井高史さんの「巣立つ者らが見る夢は」の2篇だった。

 正賞は3年ぶり、正賞と準賞の同時選出も3年ぶりだった。応募総数は31篇と漸減傾向にあるが、作品としては読みごたえのあるものが多かった。量はともかく、質は高い――それが今年の印象だった。

 なかでも、正賞のタイトルにもなったカノープスは、いわきでは真冬、水平線のすぐ上に現れてすぐ沈む南の星だという。

 いわきがカノープスの見える北限とかで、天文学的現実にいわきと千葉の人間をからめた物語が高く評価された。

 紫金山・アトラス彗星だけではない。カノープスもまた観察してみたい星の一つに加わった。

2024年10月18日金曜日

夜更けの訃報

                 
   夜更けの10時前、電話が鳴って目が覚めた。息子からだった。友人の名前を告げて、「今、亡くなった」という。

友人とは家族ぐるみのつきあいだった。子どもは子どもでつながり、友人の娘の親友と息子が一緒になった。それで連絡が入ったようだ。

庭先でのタケノコパーティー、ホタル狩り。その他もろもろの市民活動……。訃報に接して、友人との半世紀近い思い出が脳内をめぐった。

翌日、夫婦で弔問に行った。友人はこの世のしがらみから解き放たれたように、今までで一番といってもいい温顔だった。

晩になると、東の空に満月が現れた=写真。スーパームーンだという。思わず、黄泉路を行く友人の足元を照らしてほしい、そう祈らずにはいられなかった。

地域紙の記者になって初めてできた、取材先の知り合いの一人だった。その後、アフターファイブでの付き合いを重ね、次第にツーカーの間柄になった。

人づてに「入院している」と聞いたのは10月の初めだった。それから病状が急変したのだろう。10月16日夜9時前、息を引き取った。あと10日もたてば、喜寿の77歳だった。

「いわきフォーラム’90」というまちづくり支援団体に絞って書く。平成2(1990)年から定期的にミニミニリレー講演会を開いてきた。友人はその中心メンバーだった。

誰もが講師で聴講生――がモットーだった。声がかかって、私もこの組織に加わった。

いわきに住む東大名誉教授が憲法講話をしたり、農家のお年寄りがシベリア抑留体験の話をしたりした。

阪神・淡路大震災が起きたときには、私も講師を買って出た。「災害のあとに」と題して話した。7歳のときの大火事体験とその後の暮らしの変化を知ってほしかったのだった。

 講師は多士済々。震災前には佐藤栄佐久元福島県知事が「『地方自治』を語る――『知事抹殺』からみえてくるもの」と題して話した。

 震災後には、元いわき市歯科医師会長の中里廸彦さんが、「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話した。

 震災直後の3月18日から7月末まで、歯科医師会有志13人が安置所に通い、身元の判明していない遺体の歯の状況を細かく記録し、警察の鑑識に提供した。

 一般のニュースでは知りえない深い話に触れる、またとない機会だった。友人の人脈の広さ、講師やテーマを絞る確かさにはただただ敬服した。

 実は、私が現役のころ、コラムでミニミニリレー講演会に触れ、1000回を目指すくらいの覚悟でやってほしいと、過剰な期待をかけたことがある。

令和元(2019)年の夏、節目の500回を目前にして、古巣のいわき民報がミニミニリレー講演会を記事にした。

そのなかで友人が語っていた。1000回を目標にしているのは「いわき民報に言われた」からだと。

こちらのエールを受け止め、コロナ禍で中断を余儀なくされても、持続する意志は衰えなかった。実に得難い人だった。

2024年10月17日木曜日

三春ネギの種をまく

            
  10月10日は、かつては国民の祝日「体育の日」だった。今は「ハッピーマンデー」制度によって、10月第2月曜日「スポーツの日」がそれに代わった。

祝日だから、あるいは「だった」からというわけではない。10月10日は、私にとっては特別な日だ。

隠居のある夏井川渓谷の集落では、昔からこの日を「三春ネギ」の種をまく基準日にしている。

私もそれにならって、10月10日前後の日曜日に、畳半分ていどの苗床をつくって三春ネギの種をまいてきた。

三春ネギは、その名前の通り田村地方から小野町を経由して、夏井川渓谷の集落へ伝わったにちがいない。

郡山市の「阿久津曲がりネギ」もやはり秋まきだ。三春ネギは阿久津曲がりネギと同種、あるいは同系統のネギだと私は思っている。春に種をまくいわきの平地のネギとは系統が違う。

 田村地方では、阿久津と同様、曲がりネギにする。そのネギを食べて育った。25年余り前、集落の住民から苗をもらい、育て、種を採ったものの、3年ほど種の保存に失敗した。

種は冷蔵庫で保存する、と知ってから、やっと自前で採種・播種ができるようになった。

 ふるさとの習慣に従って夏に掘り起こし、「やとい」(斜め植え)をして曲がりネギにした。渓谷ではしかし、そんなことをしない。定植したままでまっすぐの一本ネギにする。

曲げるかまっすぐにするか、まっすぐなら手抜きができる。年も取ったし――というわけで、7年前からは植えたままにしている。

事前の準備がある。9月後半になると苗床を決めて耕し、石灰をまく。次の日曜日には肥料をすき込む。

そして、10月10日に近い日曜日。苗床にたっぷり水をやって土をならし、板を使って深さ3~5ミリの溝をつくり、黒い種を筋まきにする。

まいたら溝の両側から土をかぶせて、種が雨で露出しないようにする。すると、次の日曜日には、種のすぐ上の土が筋状に割れてくる。その割れ目から発芽しつつある緑色のネギ苗がのぞくようになる。

夏にネギ坊主を摘み取り、ごみとカラの種を取り除いて小瓶に入れ、種まきまで冷蔵庫で保管した。

10月13日の日曜日、筋まきをしたが、半分近くは余った。ネギの種の寿命は短い。が、2年は持つ。来年用に小瓶ごと、また冷蔵庫にしまった。

実はこの日朝、小野町のNさんが江田駅前の道端で直売所の小屋づくりを始めるところだった。

1年ぶりの再会だ。「長芋は、今年はよくない」「曲がりネギは?」「大丈夫」。ネギは砂漠生まれだから乾燥には強い。今夏は酷暑続きだった。それが明暗を分けたようだ。

 種まきが終わると、なにか大きな仕事をしたような心境になった。久しぶりの解放感も手伝って、マイクロツーリズムをしたくなった。

カミサンの希望で川前から山越えをして三和に下り、ふれあい市場で漬物と梅干しを買った。昼食はしかし、どこも込んでいた。結局、好間まで下りて、そこですませた。

2024年10月16日水曜日

断酒3カ月

                     
   10代後半で慢性的な不整脈の診断を受けた。成人になると、喫煙、毎晩のアルコール、退職後は東日本大震災・原発事故、老化なども加わって、服用する薬が少しずつ増えた。

震災の翌年からはかかりつけ医院のつながりで、定期的に基幹病院で検査を受けている。

今年(2024年)5月には消化器を診てもらった。変化はない、だった。循環器は6月に検査を受けた。悪くならないための予防的な手術を提案され、7月中旬にカテーテルによる「左心耳閉鎖術」を受けた。

心臓由来の血栓からくる脳梗塞と抗凝固薬の長期服用による出血のリスクを減らすのが目的で、手術から6日後には退院した。

血圧手帳を渡された=写真。「循環器病予防は家庭血圧測定から」と表紙にある。毎日、血圧を測るようになった。

アルコールは「節酒を」というので、自主的に断った。たばこは禁煙してから20年以上がたつ。

9月末の診察では、ドクターが手帳を見て、心臓の負担を和らげる薬を「半分の量にしましょう」と言った。利尿と降圧の薬も、すでに半分になっている。

そばの薬局に処方箋を渡すと、受付の女性が明るい声で応じた。「薬の量が減ったんですね」

それに刺激されて、血圧手帳の解説をじっくり読んでみた。朝(起床して1時間以内=排尿後、薬を飲む前、朝食前)と夜(就寝前)、それぞれ2回測るとあった。

手帳の書き込み欄に1回目と2回目があるのはそのためだが、1回だけですませることが多かった。測る時間も朝食後だったり、昼前だったりとまちまちだった。

測るときは、背もたれ付きのいすに足を組まずに腰をかけて、1~2分安静にしてリラックスする。これも適当だった。

さらにネットで調べると、血圧は起床時からゆっくりと上昇し、活動量の多い昼間に高くなる、夕方になって活動量が減ると低下し、睡眠中はさらに低くなる、とあった。「早朝高血圧」は要注意だという。

体からアルコールが抜けて3カ月。ビフォー・アフターでいうと、まず便通が安定してきた。詳しくは避けるが、ずいぶん落ち着いた。

 フリーになったあと、いったんは「締め切り」のない生活を楽しんだ。が、3カ月もたつと、気持ちが落ち着かなくなった。

「一日に1回は締め切りを持つ」ことにして、毎日、ブログを書いている(今は、日・祝日は休む)。下書きは晩酌をしながらつくった。

断酒してみて初めて、晩酌の時間が一日で一番リラックスして、楽しかったことを知った。

 一日の基本は、断酒してもそう変わらない。が、晩酌がなくなっただけで生活のリズムはいちだんと単純になった。

アルコールのない余生はどうなのだろう。首をひねりながら、とにかく浴びるように飲んできた、一生分どころかあの世の分まで飲んでしまった、という思いにはなる。

であればアルコールはもういいか、と自分に言い聞かせながらも、なお気持ちは揺れ動く。日曜日の晩の、カツ刺しのときくらいは……なんて。

2024年10月15日火曜日

ハクチョウが飛来

               
 夏井川渓谷の隠居へ行く途中、平地の小川町・三島で、500メートルほど国道399号と同川が接する。

 三島はハクチョウの越冬地でもある。県紙によると10月12日、猪苗代湖にハクチョウ49羽が今季初めて飛来した。

過去の例だと、浜通り南部のいわき市へやって来るのは、猪苗代湖で初飛来が確認されてから1週間~10日後だ。

すると、今年(2024年)は10月19~22日あたりに、三島か平窪、ないし下流の塩(新川合流部)にハクチョウが姿を見せる。

 13日の日曜日朝、渓谷へ行くのにいつもの国道399号を利用した。三島の直前でカミサンにハクチョウ飛来が近いことを説明する。

「今朝の新聞に、ハクチョウが猪苗代湖に飛来したって記事が載ってた。今度の日曜日(10月20日)には三島にいるかも」

 その数秒後、三島橋の上流右岸にハクチョウが8羽、羽を休めているのが目に入った=写真。

猪苗代湖にやって来たばかりでもう三島とは! これまでの時間差を覆す早い飛来に驚いた。

 今年は夏が長かった。こう暑くてはハクチョウも南下する気にはならないだろう。そう思っていたが、繁殖地のロシアからはいつものように旅立ったらしい。

樋口広芳『鳥たちの旅――渡り鳥の衛星追跡』(NHKブックス、2005年)や、長谷川博『白鳥の旅――シベリアから日本へ』(東京新聞出版局、1988年)、さらにはネットにアップされた専門家の論考によると、長い旅のルートは次のようだ

 まずは春の北帰行。1990年4月10日、北海道のクッチャロ湖で送信機を付けられたコハクチョウはサハリンへ渡り、ロシアの北極海に注ぐ巨大河川「コリマ川」を北上して河口に到達した。やや北東部に移ったところで通信が途絶えた。

そこは「大小何千もの湖沼からなるツンドラ地帯の一大湿地」、つまりコハクチョウの繁殖地だ。クッチャロ湖から繁殖地までの距離は3083キロ、3週間あまりの旅だった。

このコハクチョウは1986年から毎年、長野県の諏訪湖に飛来し、送信機を付けられた1990年秋には幼鳥1羽を連れて現れた。色足環で確認された。

コハクチョウは北極海沿岸から北緯60度の間のツンドラ地帯で営巣・育雛する。オオハクチョウはそれより南の森林ツンドラからタイガ(針葉樹林)帯が繁殖地だという。繁殖地と越冬地との距離の長短には体の大きさ(重さ)が関係しているらしい。

 南下には北帰行と逆のルートをたどる。その年に生まれたばかりの幼鳥を伴い、9月に旅立った家族は、ツンドラ~サハリン~北海道~本州へと渡って来る。

翼を傷めて三島に残留したコハクチョウの「エレン」はやがて傷が癒え、去年、仲間と一緒に北へ帰り、秋に再び三島の夏井川へ戻って来た。

コハクチョウのくちばしは根元が一部黄色くて、あとは黒い。エレンは黒いくちばしの付け根に黄色い紋様がある。それで識別できる。この秋もエレンに会えるといのだが……。

2024年10月12日土曜日

30年越しの宿題

                              
 図書館の新着図書コーナーにいわき関連図書として、明治大学博物館発行の『内藤家文書 御役人前録』(2022年)があった=写真。

 史料の翻刻で、解読に自信のない人間には縁遠い本なのだが、今回は瞬時に「昭和新山」「内藤家臣三松百助」の言葉が頭に浮かんだ。

 30年間まったく手つかずになっていた「三松百助」の調べが少し進むかもしれない。そんな思いがわいて漢字だらけの本を借りた。

平成6(1994)年秋、小樽・洞爺湖・登別・白老・札幌を巡る2泊3日の北海道旅行に加わった。昭和新山も訪ねた。

そのときの記録の一部。――麦畑がムクムク盛り上がり、やがては標高407メートルの火山に成長したという昭和新山が、白い水蒸気を噴き上げてそびえ立つ。

 昭和新山が形成されたのは、戦時下の昭和18(1943)年暮れから20年秋にかけての2年間だ。

当時、ふもとの郵便局長だった三松正夫が、時間の経過とともに成長する山の姿を定点で記録した。世界的に評価の高い「ミマツダイヤグラム」である。

「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)で、三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1990年)を買った。

明治維新後、正夫の祖父は宮崎県官吏になった。父もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長となった。

正夫は新山を守るために元麦畑を買い取る。三朗は大阪生まれだが、北海道で学び、就職したあと正夫と出会い、火山への思いを知って三松家と昭和新山を引き継いだ。

正夫の祖父は「三松林太郎百助(略)、内藤藩の侍で、御番頭、社寺奉行、町奉行、郡奉行、御用人」などを務めたと、『火山一代』にあった――。

それから23年後の平成29(2017)年11月、北海道・洞爺湖周辺を舞台にブラタモリが放送された。タモリは三朗を案内人に、昭和新山にも登った。

『いわき史料集成4』(1987年)に当たると、磐城平から延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」には8人の三松姓が載る。ミマツダイヤグラムの先祖はいわきで産湯につかったにちがいない。

先祖を突き止めたいと思いながらも、調べはまったく進まなかった。そこへ現れた『御役人前録』である。役職と就任者が記されている。

磐城平藩時代の正夫の先祖はともかく、祖父の百助については手がかりが得られるに違いない。

そう思って名前を追い続けると、終わり近く、「御取次」の項に「弘化二巳正月十九日 三松百助」とあった。

幕末の弘化2(1845)年1月19日、百助は御取次役に就任した、ということなのだろう。

解説によると、内藤藩士は組内・中小姓組・組外・足軽以下に編成されていた。「前録」に収録されているのは、「組内」の上級藩士が就任する役職だという。

会社でいえば百助は幹部社員だったか。とりあえず一つだけでも手がかりが得られたことをよしとしよう。

2024年10月11日金曜日

朱色の小さなキノコ

          
   9月の秋分の日あたりまで「長い夏」が続いた。そのあとは一転、ぐずついた天気になって、長そでを着たり、半そでに戻ったり……。

10月に入ると「秋の長雨」に変わった。ハマ(小名浜)も、マチ(山田)も、ヤマ(川前)も、連日のように小雨が降ったり、やんだりした。

例年だと、8月後半には長雨が始まる。それで山野が湿り気を帯び、最低気温も20度を割って、秋のキノコの出番になる。

東日本大震災と原発事故が起きて以来、いわきでは野生キノコの摂取・出荷が制限されている。

夏井川渓谷にある隠居の庭は放射線量が少し高めだったので、全面除染の対象になった。

平成25(2013)年12月、庭の表土が5センチほどはぎとられ、山砂が投入された。猫の額ほどの菜園はいったん更地になった。

摂取制限がかかって以来、キノコ採りの意欲はしぼんだ。森を巡ることもしなくなった。が、土を入れ替えた庭だけは別だ。

庭の枯れ木に生えるアラゲキクラゲやヒラタケ、モミの木の根元に現れるアカモミタケなどは、ありがたくちょうだいする。

が……。この夏~初秋は気温が高くて湿りも少なく、キノコはまず期待できなかった。春のアミガサタケも、梅雨期のマメダンゴ(ツチグリ幼菌)も不作だった。

10月に入ってやっと、ジメジメして涼しくなる。それと連動して、森で出合ったキノコが思い浮かぶようになった。

マツタケは最初から頭にない。あそこと、ここ。他人のシロかもしれないが、自分のシロでもある林内を巡って、アミタケを採る人間、つまり私が脳内に映し出される。

それだけではない。渓谷の県道沿いに車が止まっていれば、「マツタケか、アミタケか。マツタケ狙いはもう帰っているはず。アミタケだな」と胸中で問答する。

いずれにしても、森には入らない。過去の“菌活”がよみがえるたびに、原発事故への怒りが倍加する。

先の日曜日(10月6日)も似たような思いを反芻しながら、土いじりをし、庭を一巡した。

すると、隠居の濡れ縁のすぐ近く、草が復活した地面に、朱色の小さなキノコが点々と生えていた=写真。径はおよそ1センチ前後。傘の中央がとがっている。

あまりにも小さいので、これまでは無視していたキノコだ。まずは写真を撮る。帰宅後、撮影データを見ながら検索を続けたら、アカヤマタケの仲間らしいことがわかった。

昔と違って今は中毒例が増え、毒キノコの扱いらしい。もとより口にはしないので、一喜一憂をすることもない。隠居の庭のキノコ図鑑に加えるだけだ。

この時期に出合いたいのは、実はアカモミタケである。道路と庭の境で生長したモミの木の根元に出る。

電線に触れるので、剪定してもらったら立ち枯れを起こしたらしい。アカモミタケはモミの根と共生する菌根菌である。

モミが枯れたらアカモミタケも……。去年(2023年)はそのせいか、発生がゼロだった。今年も期待はしない方がよさそうだ。

2024年10月10日木曜日

耳から始まるトンチンカン

                             
   雨模様の曇天下、青空がのぞけば庭に出て光を浴びる。ついでに草木をながめる。

カミサンがミョウガを刈り払い、フヨウの枝を剪定した。はじっこではムラサキシキブが紫色の実を付け、その手前には赤みの強いミズヒキソウの花が咲いている=写真。

花を撮るためにカメラを構えていると、すぐ腰のあたりが張ってくる。鍛え上げた力士のように中腰のままではいられない。

すっかり体を動かさなくなった。いや、年のせいで動きが鈍くなった。座いすから立ち上がるにも、口にこそ出さないが「よいしょ!」と気合を入れる。

江戸時代中期の俳人横井也有の狂歌が身にしみる。「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」「手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる」

最初は頭髪、次に目、そして歯と耳、やがて足。いや、後期高齢者になった今はすべてが同時進行だ。

水を飲むとむせる。のどの筋肉が衰えたことを自覚する。座卓の周りにある座布団を踏み外さないように気を付ける。2階から降りるときには必ず手すりをつかむ。前にはなかった注意行動だ。

去年(2023年)後半だけでも、カミサンの友人・知人が自宅で、外で転んでひざや肩を骨折し、入院して手術をした。

デイケアに通っている義弟も家で転び、背骨を2カ所、圧迫骨折をした。ほかにも近親者が転んで大腿骨を折ったという話が入ってきた。

カミサンからは毎日のように、「転ばないでね」と声がかかる。そこへ上皇后さまが転んで右の大腿骨を骨折した、というニュースが飛び込んできた。

心配なのはしかし、足だけではない。若いときから右耳が難聴気味だった。このごろはそれが昂(こう)じて、「誤聞」によるトンチンカンが繰り返される。

上皇后さまのけがの程度を新聞で知った日、カミサンのアッシー君を務めた。「ダイユー8へ行きたいの」と、四倉の方を指さす。

ダイユー8なら平の城東の方が近い。家から道路に出て西へ、城東へ向かおうとすると、「どこへ行くの? 四倉だよ」「ダイユー8なら城東でいいじゃないか」「ダイユー8じゃないよ、ダイソーだよ」。

カミサンは「ダイソー」と言ったというが、私には「ダイユー8」としか聞こえなかった。それ以上言い争っても仕方がない。すぐそばの交差点を左折して東へ、四倉へ向かった。

帰宅するとほどなく来客があった。昔からの知り合いで、体調を含めた近況を報告しあっているうちに、カミサンが私の耳の話を始めた。

再び「ダイソーと言った」「ダイユー8と聞こえた」とやり合っているうちに、「ダイユー8」が「ダイソー8」になってしまい、一瞬沈黙が生まれたあと、笑いが爆発してこの話は打ち切りになった。

骨折は足から、トンチンカンは耳と口から。言葉は転んでも体は転ばないようにしないと――と、あらためて家庭内事故の怖さを胸に刻んだのだった。

2024年10月9日水曜日

『パリのおばあさんの物語』

                      
   カミサンが小さな絵本を持ってきた。『パリのおばあさんの物語/岸恵子訳』と表紙にある=写真。

著者はスージー・モルゲンステルヌ、イラストはセルジュ・ブロック。平成20(2008)年10月、つまり16年前に千倉書房から発行された。

岸恵子ファンのカミサンが買って読み、東日本大震災が起きて家の中を片付けているうちに、どこかへまぎれこんでそのままになっていたのだろう。

 おばあさんはとっくに子育てを終え、夫に先立たれて、パリの小さなアパルトマンに独りで暮らしている。

好きだった読書は目が疲れるのでやめた。縫い物は気力がなくなり、編み物は指が動かなくなったのでよした。料理だって手の込んだものは作らない。

 「やりたいこと全部ができないのなら、できることだけでもやっていくことだわ」。おばあさんは、体がいうことをきかなくなってもくよくよしない。

子ものころ、よく歌った唄を、今は笑いながら歌う。「90歳のお嬢ちゃん/クリーム食べて/歯がかけた」。90歳は、どうやらおばあさんの年齢のようだ。

そんなおばあさんだが、歩んできた人生は苛酷なものだった。夫は中央ヨーロッパからの移民だ。おばあさんもフランスに来たばかりのころは、聞いたこともない言葉や異なる風習にとまどった。

「戦争、クーデタ、テロリズム、飢餓、亡命」。テレビが伝えるニュースに、1942年のころを思い出してつらくなる。

夫がユダヤ人捕虜収容所から脱走し、逃げ帰ったところを、アパルトマンで待ち構えていたゲシュタポに捕らえられる。子どもたちを山奥の修道院に預け、自分も隠れ家から隠れ家へと逃げ回った。

その後、再び夫や子どもたちと暮らす日々が戻ってくる。しかし、独り暮らしの今を過ごしながらも、おびえは消えない。子どもたちの幸せが、また突然の不運に襲われるのではないか、と。

この絵本は、ユダヤ人一家の運命と、だれもがたどる人間の「老い」を描く。「翻訳はしない」と決めていた岸恵子さんが「原則」を破ったのは、次のような思いからだろう。

「苦楽が刻んだ皺だらけの自分の顔を『なんて美しいの』とつぶやくこのおばあさんの、老いと孤独に対するやわらかく爽やかな生き方はすてきです」(あとがき)

絵本を読んで共感しながらも、おばあさんが抱いた「おびえ」を、今度は別の人々が感じているのではないか、という思いが消えない。

パレスチナ自治区ガザのイスラム組織ハマスとイスラエル軍の戦闘開始から10月7日で1年になった、とメディアが報じていた。

もはやガザ地区だけではない。イスラエルはレバノンで地上侵攻を始め、イランはイスラエルをミサイルで攻撃するといったように、戦闘は拡大しつつある。

ガザ地区の犠牲者はすでに4万人を超えたという。パリのおばあさんだって、一刻も早い停戦を願っているのではないか、そんな思いに駆られる。