2024年10月18日金曜日

夜更けの訃報

                 
   夜更けの10時前、電話が鳴って目が覚めた。息子からだった。友人の名前を告げて、「今、亡くなった」という。

友人とは家族ぐるみのつきあいだった。子どもは子どもでつながり、友人の娘の親友と息子が一緒になった。それで連絡が入ったようだ。

庭先でのタケノコパーティー、ホタル狩り。その他もろもろの市民活動……。訃報に接して、友人との半世紀近い思い出が脳内をめぐった。

翌日、夫婦で弔問に行った。友人はこの世のしがらみから解き放たれたように、今までで一番といってもいい温顔だった。

晩になると、東の空に満月が現れた=写真。スーパームーンだという。思わず、黄泉路を行く友人の足元を照らしてほしい、そう祈らずにはいられなかった。

地域紙の記者になって初めてできた、取材先の知り合いの一人だった。その後、アフターファイブでの付き合いを重ね、次第にツーカーの間柄になった。

人づてに「入院している」と聞いたのは10月の初めだった。それから病状が急変したのだろう。10月16日夜9時前、息を引き取った。あと10日もたてば、喜寿の77歳だった。

「いわきフォーラム’90」というまちづくり支援団体に絞って書く。平成2(1990)年から定期的にミニミニリレー講演会を開いてきた。友人はその中心メンバーだった。

誰もが講師で聴講生――がモットーだった。声がかかって、私もこの組織に加わった。

いわきに住む東大名誉教授が憲法講話をしたり、農家のお年寄りがシベリア抑留体験の話をしたりした。

阪神・淡路大震災が起きたときには、私も講師を買って出た。「災害のあとに」と題して話した。7歳のときの大火事体験とその後の暮らしの変化を知ってほしかったのだった。

 講師は多士済々。震災前には佐藤栄佐久元福島県知事が「『地方自治』を語る――『知事抹殺』からみえてくるもの」と題して話した。

 震災後には、元いわき市歯科医師会長の中里廸彦さんが、「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話した。

 震災直後の3月18日から7月末まで、歯科医師会有志13人が安置所に通い、身元の判明していない遺体の歯の状況を細かく記録し、警察の鑑識に提供した。

 一般のニュースでは知りえない深い話に触れる、またとない機会だった。友人の人脈の広さ、講師やテーマを絞る確かさにはただただ敬服した。

 実は、私が現役のころ、コラムでミニミニリレー講演会に触れ、1000回を目指すくらいの覚悟でやってほしいと、過剰な期待をかけたことがある。

令和元(2019)年の夏、節目の500回を目前にして、古巣のいわき民報がミニミニリレー講演会を記事にした。

そのなかで友人が語っていた。1000回を目標にしているのは「いわき民報に言われた」からだと。

こちらのエールを受け止め、コロナ禍で中断を余儀なくされても、持続する意志は衰えなかった。実に得難い人だった。

2024年10月17日木曜日

三春ネギの種をまく

            
  10月10日は、かつては国民の祝日「体育の日」だった。今は「ハッピーマンデー」制度によって、10月第2月曜日「スポーツの日」がそれに代わった。

祝日だから、あるいは「だった」からというわけではない。10月10日は、私にとっては特別な日だ。

隠居のある夏井川渓谷の集落では、昔からこの日を「三春ネギ」の種をまく基準日にしている。

私もそれにならって、10月10日前後の日曜日に、畳半分ていどの苗床をつくって三春ネギの種をまいてきた。

三春ネギは、その名前の通り田村地方から小野町を経由して、夏井川渓谷の集落へ伝わったにちがいない。

郡山市の「阿久津曲がりネギ」もやはり秋まきだ。三春ネギは阿久津曲がりネギと同種、あるいは同系統のネギだと私は思っている。春に種をまくいわきの平地のネギとは系統が違う。

 田村地方では、阿久津と同様、曲がりネギにする。そのネギを食べて育った。25年余り前、集落の住民から苗をもらい、育て、種を採ったものの、3年ほど種の保存に失敗した。

種は冷蔵庫で保存する、と知ってから、やっと自前で採種・播種ができるようになった。

 ふるさとの習慣に従って夏に掘り起こし、「やとい」(斜め植え)をして曲がりネギにした。渓谷ではしかし、そんなことをしない。定植したままでまっすぐの一本ネギにする。

曲げるかまっすぐにするか、まっすぐなら手抜きができる。年も取ったし――というわけで、7年前からは植えたままにしている。

事前の準備がある。9月後半になると苗床を決めて耕し、石灰をまく。次の日曜日には肥料をすき込む。

そして、10月10日に近い日曜日。苗床にたっぷり水をやって土をならし、板を使って深さ3~5ミリの溝をつくり、黒い種を筋まきにする。

まいたら溝の両側から土をかぶせて、種が雨で露出しないようにする。すると、次の日曜日には、種のすぐ上の土が筋状に割れてくる。その割れ目から発芽しつつある緑色のネギ苗がのぞくようになる。

夏にネギ坊主を摘み取り、ごみとカラの種を取り除いて小瓶に入れ、種まきまで冷蔵庫で保管した。

10月13日の日曜日、筋まきをしたが、半分近くは余った。ネギの種の寿命は短い。が、2年は持つ。来年用に小瓶ごと、また冷蔵庫にしまった。

実はこの日朝、小野町のNさんが江田駅前の道端で直売所の小屋づくりを始めるところだった。

1年ぶりの再会だ。「長芋は、今年はよくない」「曲がりネギは?」「大丈夫」。ネギは砂漠生まれだから乾燥には強い。今夏は酷暑続きだった。それが明暗を分けたようだ。

 種まきが終わると、なにか大きな仕事をしたような心境になった。久しぶりの解放感も手伝って、マイクロツーリズムをしたくなった。

カミサンの希望で川前から山越えをして三和に下り、ふれあい市場で漬物と梅干しを買った。昼食はしかし、どこも込んでいた。結局、好間まで下りて、そこですませた。

2024年10月16日水曜日

断酒3カ月

                     
   10代後半で慢性的な不整脈の診断を受けた。成人になると、喫煙、毎晩のアルコール、退職後は東日本大震災・原発事故、老化なども加わって、服用する薬が少しずつ増えた。

震災の翌年からはかかりつけ医院のつながりで、定期的に基幹病院で検査を受けている。

今年(2024年)5月には消化器を診てもらった。変化はない、だった。循環器は6月に検査を受けた。悪くならないための予防的な手術を提案され、7月中旬にカテーテルによる「左心耳閉鎖術」を受けた。

心臓由来の血栓からくる脳梗塞と抗凝固薬の長期服用による出血のリスクを減らすのが目的で、手術から6日後には退院した。

血圧手帳を渡された=写真。「循環器病予防は家庭血圧測定から」と表紙にある。毎日、血圧を測るようになった。

アルコールは「節酒を」というので、自主的に断った。たばこは禁煙してから20年以上がたつ。

9月末の診察では、ドクターが手帳を見て、心臓の負担を和らげる薬を「半分の量にしましょう」と言った。利尿と降圧の薬も、すでに半分になっている。

そばの薬局に処方箋を渡すと、受付の女性が明るい声で応じた。「薬の量が減ったんですね」

それに刺激されて、血圧手帳の解説をじっくり読んでみた。朝(起床して1時間以内=排尿後、薬を飲む前、朝食前)と夜(就寝前)、それぞれ2回測るとあった。

手帳の書き込み欄に1回目と2回目があるのはそのためだが、1回だけですませることが多かった。測る時間も朝食後だったり、昼前だったりとまちまちだった。

測るときは、背もたれ付きのいすに足を組まずに腰をかけて、1~2分安静にしてリラックスする。これも適当だった。

さらにネットで調べると、血圧は起床時からゆっくりと上昇し、活動量の多い昼間に高くなる、夕方になって活動量が減ると低下し、睡眠中はさらに低くなる、とあった。「早朝高血圧」は要注意だという。

体からアルコールが抜けて3カ月。ビフォー・アフターでいうと、まず便通が安定してきた。詳しくは避けるが、ずいぶん落ち着いた。

 フリーになったあと、いったんは「締め切り」のない生活を楽しんだ。が、3カ月もたつと、気持ちが落ち着かなくなった。

「一日に1回は締め切りを持つ」ことにして、毎日、ブログを書いている(今は、日・祝日は休む)。下書きは晩酌をしながらつくった。

断酒してみて初めて、晩酌の時間が一日で一番リラックスして、楽しかったことを知った。

 一日の基本は、断酒してもそう変わらない。が、晩酌がなくなっただけで生活のリズムはいちだんと単純になった。

アルコールのない余生はどうなのだろう。首をひねりながら、とにかく浴びるように飲んできた、一生分どころかあの世の分まで飲んでしまった、という思いにはなる。

であればアルコールはもういいか、と自分に言い聞かせながらも、なお気持ちは揺れ動く。日曜日の晩の、カツ刺しのときくらいは……なんて。

2024年10月15日火曜日

ハクチョウが飛来

               
 夏井川渓谷の隠居へ行く途中、平地の小川町・三島で、500メートルほど国道399号と同川が接する。

 三島はハクチョウの越冬地でもある。県紙によると10月12日、猪苗代湖にハクチョウ49羽が今季初めて飛来した。

過去の例だと、浜通り南部のいわき市へやって来るのは、猪苗代湖で初飛来が確認されてから1週間~10日後だ。

すると、今年(2024年)は10月19~22日あたりに、三島か平窪、ないし下流の塩(新川合流部)にハクチョウが姿を見せる。

 13日の日曜日朝、渓谷へ行くのにいつもの国道399号を利用した。三島の直前でカミサンにハクチョウ飛来が近いことを説明する。

「今朝の新聞に、ハクチョウが猪苗代湖に飛来したって記事が載ってた。今度の日曜日(10月20日)には三島にいるかも」

 その数秒後、三島橋の上流右岸にハクチョウが8羽、羽を休めているのが目に入った=写真。

猪苗代湖にやって来たばかりでもう三島とは! これまでの時間差を覆す早い飛来に驚いた。

 今年は夏が長かった。こう暑くてはハクチョウも南下する気にはならないだろう。そう思っていたが、繁殖地のロシアからはいつものように旅立ったらしい。

樋口広芳『鳥たちの旅――渡り鳥の衛星追跡』(NHKブックス、2005年)や、長谷川博『白鳥の旅――シベリアから日本へ』(東京新聞出版局、1988年)、さらにはネットにアップされた専門家の論考によると、長い旅のルートは次のようだ

 まずは春の北帰行。1990年4月10日、北海道のクッチャロ湖で送信機を付けられたコハクチョウはサハリンへ渡り、ロシアの北極海に注ぐ巨大河川「コリマ川」を北上して河口に到達した。やや北東部に移ったところで通信が途絶えた。

そこは「大小何千もの湖沼からなるツンドラ地帯の一大湿地」、つまりコハクチョウの繁殖地だ。クッチャロ湖から繁殖地までの距離は3083キロ、3週間あまりの旅だった。

このコハクチョウは1986年から毎年、長野県の諏訪湖に飛来し、送信機を付けられた1990年秋には幼鳥1羽を連れて現れた。色足環で確認された。

コハクチョウは北極海沿岸から北緯60度の間のツンドラ地帯で営巣・育雛する。オオハクチョウはそれより南の森林ツンドラからタイガ(針葉樹林)帯が繁殖地だという。繁殖地と越冬地との距離の長短には体の大きさ(重さ)が関係しているらしい。

 南下には北帰行と逆のルートをたどる。その年に生まれたばかりの幼鳥を伴い、9月に旅立った家族は、ツンドラ~サハリン~北海道~本州へと渡って来る。

翼を傷めて三島に残留したコハクチョウの「エレン」はやがて傷が癒え、去年、仲間と一緒に北へ帰り、秋に再び三島の夏井川へ戻って来た。

コハクチョウのくちばしは根元が一部黄色くて、あとは黒い。エレンは黒いくちばしの付け根に黄色い紋様がある。それで識別できる。この秋もエレンに会えるといのだが……。

2024年10月12日土曜日

30年越しの宿題

                              
 図書館の新着図書コーナーにいわき関連図書として、明治大学博物館発行の『内藤家文書 御役人前録』(2022年)があった=写真。

 史料の翻刻で、解読に自信のない人間には縁遠い本なのだが、今回は瞬時に「昭和新山」「内藤家臣三松百助」の言葉が頭に浮かんだ。

 30年間まったく手つかずになっていた「三松百助」の調べが少し進むかもしれない。そんな思いがわいて漢字だらけの本を借りた。

平成6(1994)年秋、小樽・洞爺湖・登別・白老・札幌を巡る2泊3日の北海道旅行に加わった。昭和新山も訪ねた。

そのときの記録の一部。――麦畑がムクムク盛り上がり、やがては標高407メートルの火山に成長したという昭和新山が、白い水蒸気を噴き上げてそびえ立つ。

 昭和新山が形成されたのは、戦時下の昭和18(1943)年暮れから20年秋にかけての2年間だ。

当時、ふもとの郵便局長だった三松正夫が、時間の経過とともに成長する山の姿を定点で記録した。世界的に評価の高い「ミマツダイヤグラム」である。

「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)で、三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1990年)を買った。

明治維新後、正夫の祖父は宮崎県官吏になった。父もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長となった。

正夫は新山を守るために元麦畑を買い取る。三朗は大阪生まれだが、北海道で学び、就職したあと正夫と出会い、火山への思いを知って三松家と昭和新山を引き継いだ。

正夫の祖父は「三松林太郎百助(略)、内藤藩の侍で、御番頭、社寺奉行、町奉行、郡奉行、御用人」などを務めたと、『火山一代』にあった――。

それから23年後の平成29(2017)年11月、北海道・洞爺湖周辺を舞台にブラタモリが放送された。タモリは三朗を案内人に、昭和新山にも登った。

『いわき史料集成4』(1987年)に当たると、磐城平から延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」には8人の三松姓が載る。ミマツダイヤグラムの先祖はいわきで産湯につかったにちがいない。

先祖を突き止めたいと思いながらも、調べはまったく進まなかった。そこへ現れた『御役人前録』である。役職と就任者が記されている。

磐城平藩時代の正夫の先祖はともかく、祖父の百助については手がかりが得られるに違いない。

そう思って名前を追い続けると、終わり近く、「御取次」の項に「弘化二巳正月十九日 三松百助」とあった。

幕末の弘化2(1845)年1月19日、百助は御取次役に就任した、ということなのだろう。

解説によると、内藤藩士は組内・中小姓組・組外・足軽以下に編成されていた。「前録」に収録されているのは、「組内」の上級藩士が就任する役職だという。

会社でいえば百助は幹部社員だったか。とりあえず一つだけでも手がかりが得られたことをよしとしよう。

2024年10月11日金曜日

朱色の小さなキノコ

          
   9月の秋分の日あたりまで「長い夏」が続いた。そのあとは一転、ぐずついた天気になって、長そでを着たり、半そでに戻ったり……。

10月に入ると「秋の長雨」に変わった。ハマ(小名浜)も、マチ(山田)も、ヤマ(川前)も、連日のように小雨が降ったり、やんだりした。

例年だと、8月後半には長雨が始まる。それで山野が湿り気を帯び、最低気温も20度を割って、秋のキノコの出番になる。

東日本大震災と原発事故が起きて以来、いわきでは野生キノコの摂取・出荷が制限されている。

夏井川渓谷にある隠居の庭は放射線量が少し高めだったので、全面除染の対象になった。

平成25(2013)年12月、庭の表土が5センチほどはぎとられ、山砂が投入された。猫の額ほどの菜園はいったん更地になった。

摂取制限がかかって以来、キノコ採りの意欲はしぼんだ。森を巡ることもしなくなった。が、土を入れ替えた庭だけは別だ。

庭の枯れ木に生えるアラゲキクラゲやヒラタケ、モミの木の根元に現れるアカモミタケなどは、ありがたくちょうだいする。

が……。この夏~初秋は気温が高くて湿りも少なく、キノコはまず期待できなかった。春のアミガサタケも、梅雨期のマメダンゴ(ツチグリ幼菌)も不作だった。

10月に入ってやっと、ジメジメして涼しくなる。それと連動して、森で出合ったキノコが思い浮かぶようになった。

マツタケは最初から頭にない。あそこと、ここ。他人のシロかもしれないが、自分のシロでもある林内を巡って、アミタケを採る人間、つまり私が脳内に映し出される。

それだけではない。渓谷の県道沿いに車が止まっていれば、「マツタケか、アミタケか。マツタケ狙いはもう帰っているはず。アミタケだな」と胸中で問答する。

いずれにしても、森には入らない。過去の“菌活”がよみがえるたびに、原発事故への怒りが倍加する。

先の日曜日(10月6日)も似たような思いを反芻しながら、土いじりをし、庭を一巡した。

すると、隠居の濡れ縁のすぐ近く、草が復活した地面に、朱色の小さなキノコが点々と生えていた=写真。径はおよそ1センチ前後。傘の中央がとがっている。

あまりにも小さいので、これまでは無視していたキノコだ。まずは写真を撮る。帰宅後、撮影データを見ながら検索を続けたら、アカヤマタケの仲間らしいことがわかった。

昔と違って今は中毒例が増え、毒キノコの扱いらしい。もとより口にはしないので、一喜一憂をすることもない。隠居の庭のキノコ図鑑に加えるだけだ。

この時期に出合いたいのは、実はアカモミタケである。道路と庭の境で生長したモミの木の根元に出る。

電線に触れるので、剪定してもらったら立ち枯れを起こしたらしい。アカモミタケはモミの根と共生する菌根菌である。

モミが枯れたらアカモミタケも……。去年(2023年)はそのせいか、発生がゼロだった。今年も期待はしない方がよさそうだ。

2024年10月10日木曜日

耳から始まるトンチンカン

                             
   雨模様の曇天下、青空がのぞけば庭に出て光を浴びる。ついでに草木をながめる。

カミサンがミョウガを刈り払い、フヨウの枝を剪定した。はじっこではムラサキシキブが紫色の実を付け、その手前には赤みの強いミズヒキソウの花が咲いている=写真。

花を撮るためにカメラを構えていると、すぐ腰のあたりが張ってくる。鍛え上げた力士のように中腰のままではいられない。

すっかり体を動かさなくなった。いや、年のせいで動きが鈍くなった。座いすから立ち上がるにも、口にこそ出さないが「よいしょ!」と気合を入れる。

江戸時代中期の俳人横井也有の狂歌が身にしみる。「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」「手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる」

最初は頭髪、次に目、そして歯と耳、やがて足。いや、後期高齢者になった今はすべてが同時進行だ。

水を飲むとむせる。のどの筋肉が衰えたことを自覚する。座卓の周りにある座布団を踏み外さないように気を付ける。2階から降りるときには必ず手すりをつかむ。前にはなかった注意行動だ。

去年(2023年)後半だけでも、カミサンの友人・知人が自宅で、外で転んでひざや肩を骨折し、入院して手術をした。

デイケアに通っている義弟も家で転び、背骨を2カ所、圧迫骨折をした。ほかにも近親者が転んで大腿骨を折ったという話が入ってきた。

カミサンからは毎日のように、「転ばないでね」と声がかかる。そこへ上皇后さまが転んで右の大腿骨を骨折した、というニュースが飛び込んできた。

心配なのはしかし、足だけではない。若いときから右耳が難聴気味だった。このごろはそれが昂(こう)じて、「誤聞」によるトンチンカンが繰り返される。

上皇后さまのけがの程度を新聞で知った日、カミサンのアッシー君を務めた。「ダイユー8へ行きたいの」と、四倉の方を指さす。

ダイユー8なら平の城東の方が近い。家から道路に出て西へ、城東へ向かおうとすると、「どこへ行くの? 四倉だよ」「ダイユー8なら城東でいいじゃないか」「ダイユー8じゃないよ、ダイソーだよ」。

カミサンは「ダイソー」と言ったというが、私には「ダイユー8」としか聞こえなかった。それ以上言い争っても仕方がない。すぐそばの交差点を左折して東へ、四倉へ向かった。

帰宅するとほどなく来客があった。昔からの知り合いで、体調を含めた近況を報告しあっているうちに、カミサンが私の耳の話を始めた。

再び「ダイソーと言った」「ダイユー8と聞こえた」とやり合っているうちに、「ダイユー8」が「ダイソー8」になってしまい、一瞬沈黙が生まれたあと、笑いが爆発してこの話は打ち切りになった。

骨折は足から、トンチンカンは耳と口から。言葉は転んでも体は転ばないようにしないと――と、あらためて家庭内事故の怖さを胸に刻んだのだった。

2024年10月9日水曜日

『パリのおばあさんの物語』

                      
   カミサンが小さな絵本を持ってきた。『パリのおばあさんの物語/岸恵子訳』と表紙にある=写真。

著者はスージー・モルゲンステルヌ、イラストはセルジュ・ブロック。平成20(2008)年10月、つまり16年前に千倉書房から発行された。

岸恵子ファンのカミサンが買って読み、東日本大震災が起きて家の中を片付けているうちに、どこかへまぎれこんでそのままになっていたのだろう。

 おばあさんはとっくに子育てを終え、夫に先立たれて、パリの小さなアパルトマンに独りで暮らしている。

好きだった読書は目が疲れるのでやめた。縫い物は気力がなくなり、編み物は指が動かなくなったのでよした。料理だって手の込んだものは作らない。

 「やりたいこと全部ができないのなら、できることだけでもやっていくことだわ」。おばあさんは、体がいうことをきかなくなってもくよくよしない。

子ものころ、よく歌った唄を、今は笑いながら歌う。「90歳のお嬢ちゃん/クリーム食べて/歯がかけた」。90歳は、どうやらおばあさんの年齢のようだ。

そんなおばあさんだが、歩んできた人生は苛酷なものだった。夫は中央ヨーロッパからの移民だ。おばあさんもフランスに来たばかりのころは、聞いたこともない言葉や異なる風習にとまどった。

「戦争、クーデタ、テロリズム、飢餓、亡命」。テレビが伝えるニュースに、1942年のころを思い出してつらくなる。

夫がユダヤ人捕虜収容所から脱走し、逃げ帰ったところを、アパルトマンで待ち構えていたゲシュタポに捕らえられる。子どもたちを山奥の修道院に預け、自分も隠れ家から隠れ家へと逃げ回った。

その後、再び夫や子どもたちと暮らす日々が戻ってくる。しかし、独り暮らしの今を過ごしながらも、おびえは消えない。子どもたちの幸せが、また突然の不運に襲われるのではないか、と。

この絵本は、ユダヤ人一家の運命と、だれもがたどる人間の「老い」を描く。「翻訳はしない」と決めていた岸恵子さんが「原則」を破ったのは、次のような思いからだろう。

「苦楽が刻んだ皺だらけの自分の顔を『なんて美しいの』とつぶやくこのおばあさんの、老いと孤独に対するやわらかく爽やかな生き方はすてきです」(あとがき)

絵本を読んで共感しながらも、おばあさんが抱いた「おびえ」を、今度は別の人々が感じているのではないか、という思いが消えない。

パレスチナ自治区ガザのイスラム組織ハマスとイスラエル軍の戦闘開始から10月7日で1年になった、とメディアが報じていた。

もはやガザ地区だけではない。イスラエルはレバノンで地上侵攻を始め、イランはイスラエルをミサイルで攻撃するといったように、戦闘は拡大しつつある。

ガザ地区の犠牲者はすでに4万人を超えたという。パリのおばあさんだって、一刻も早い停戦を願っているのではないか、そんな思いに駆られる。

2024年10月8日火曜日

続・ノルウェーの小説

                              
   ヨン・フォッセ(1959年~)は去年(2023年)、ノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家・劇作家だ。

彼の小説『朝と夕』(伊達朱実訳=国書刊行会、2024年)を読んだ話を前に書いた。

 たまたま図書館の外国文学コーナーで本の背表紙をながめていたら、フォッセの小説『三部作(トリロギーエン)』(早川書房、2024年)があった=写真。『朝と夕』を読み終えたばかりだったので、余韻に誘われて借りた。

表紙カバーのそでに、居場所を探し求める17歳の若いカップル(アスレとアリーダ)の様子が描かれる。小説冒頭部分でもある。

「アスレは冷たい雨の中をさまよっていた。船に乗って故郷を離れ、海岸沿いの街ビョルグヴィンで、妊娠中の妻アリーダとともに宿をさがしていた……」

『朝と夕』は不思議な小説だった。短い第一部は誕生。生まれた男の子はヨハネスと名付けられる。そして、第二部は年老いたヨハネスの死が描かれる。生と死の物語だ。

『三部作』も簡単に説明するのは難しい。重大な「事件」(殺人)は伏せられている。アスレは「船」も、「宿」もそうして手に入れたのかと、読者はあとで知る。

ここではあらすじではなく、主な舞台となった「ビョルグヴィン」について触れたい。ビョルグヴィンはベルゲンの古い呼び名だという。

『朝と夕』を紹介したときにも書いたが、ベルゲンは首都のオスロに次ぐ、ノルウェー第二の港湾都市だ。

同級生と北欧旅行をした際、ここに2泊し、世界遺産のフィヨルドを周遊したり、港の一角にある「ブリッゲン地区」を見て回ったりした。

ベルゲンは中世、北ドイツを中心にした「ハンザ同盟」の一拠点として、「干しダラ」の一大集散地になった。

港の一角にドイツ風の木造家屋が並ぶ。すき間なく建てられた3階建て、三角屋根の木造切妻建築が特徴で、壁面がオレンジ、白、イエローと多彩な色に染まっている。それが世界遺産の「ブリッゲン地区」。ハンザ商人の住居・倉庫・仕事場だった。

『三部作』から――。ビョルグヴィンに着いた2人は夜になっても宿が決まらない。晩秋である。野宿するには寒すぎる。体は雨でびしょ濡れだ。

ベルゲンはとにかく雨が降る。メキシコ湾流の影響で湿った空気が山に当たり、絶えず雨を降らせる。

老婆が住む家に入り込むとほどなく、アリーダは産気づく。老婆は産婆だったが、もうそのときには息絶えていた。

アスレは産婆を探しに通りへ出る。別の産婆は、市場からブリッゲン波止場を過ぎて、郊外へ行ったところにいると、産婆探しを手伝った老人(実は懸賞金稼ぎ?)にいわれる。

今のベルゲン。ブリッゲンの近く、港の中央に魚市場がある。市民のほかに観光客が訪れる。私たちもそこで土産にカニ缶の詰め合わせなどを買った。

 作品の中のビョルグヴィンと現実のベルゲンが絶えず交差する。異国の港町なのに知った土地の感覚がある。外国文学で初めて既視感を抱いた。

2024年10月7日月曜日

コウノトリが一時滞留

                               
 日本野鳥の会いわき支部から、支部報「かもめ」第164号(10月1日発行)の恵贈にあずかった=写真。表紙にツバメの塒(ねぐら)入り観察会の写真と文章が載る。

 中の報告記事も併せて読むと、観察会は8月4日夕方、夏井川河口右岸サイクリング公園から上流500メートルほどの間で行われた。

 参加者は58人、うち一般参加者は43人と、今までにない数だったという。東京や茨城県、郡山市からも駆けつけた。

 もう15年前になる。たまたまツバメの塒観察会を知って駆けつけたことがある。場所は同じ夏井川河口右岸上流のヨシ原。

用があって最後までおられず、空を覆うような数のツバメを見ることはできなかった。それが心残りで、8月に入るとツバメの塒入りが頭に浮かぶ。今年(2024年)は、ツバメの数が圧倒的に多く、見応えがあったそうだ。

川面に波紋を残して、集団で水飲みや水浴びをする。空を覆い尽くす大群が何度も現れる。対岸のヨシ原の上を無数のツバメが飛び回り、次々にヨシ原の中に飛び込んでいく――。

 文章を読みながら、塒入りの光景を想像して心がときめいた。それよりなにより、参加者が堤防の上にずらりと並んだ写真には圧倒された。

15年前はスタッフを含めて何人いただろう。ほんの少しではなかったか。それが長い列をつくって、一斉にヨシ原を眺めている。ツバメの数もそうだが、観察する人間の数の多さにびっくりした。

それだけではない。コウノトリが観察会の直前、付近の水田でザリガニを採餌(さいじ)していたという。この写真にも驚いた。

2015年秋にも、いわきにコウノトリが飛来しことがある。そのときの拙ブログを要約・再掲する。

 ――千葉県野田市で放鳥されたコウノトリ3羽のうち、1羽がいわき市へ現れた。と思ったら、もう山梨県上野原市へ移動した。

3羽にはGPS(衛星利用測位システム)の発信器が装着されている。9月22日、メスの「未来(みき)」ちゃんがいわき(夏井川下流の平・菅波地区)で撮影された。

それを知って、野田市のホームページで移動経路を確認する。7月23日、放鳥。そのあと、足利市(群馬県)付近で過ごし、8月10日現在で猪苗代湖北部(福島県)に。

翌11日現在で白石市(宮城県)にいて、名取市を経て月遅れ盆から1カ月余は仙台市付近にとどまっていた。

9月24日~10月2日現在ではいわき市に滞留し、10月5日現在では上野原市にいる――。

 今年のコウノトリは、足環から、やはり野田市で4月に野外孵化をしたオス2羽のうちの1羽、「たける」君とわかった。

 いわき滞在は8月4~6日午後だったようで、8日には群馬県千代田町の田んぼで確認されたという。

 令和元年東日本台風で夏井川がはんらんし、甚大な被害が出た。その改修が今も続く。そうしたなかで、ツバメたちがいつもの下流域で休むことができたのはなによりだった。

2024年10月5日土曜日

列車とカモシカが衝突

          
 いわきと郡山を結ぶ磐越東線の話である。列車に動物がはねられたといえば、思い浮かぶのはイノシシだ。

拙ブログでもイノシシの衝突事故を取り上げている。平成26(2014)年9月2日午後8時過ぎ、夏井―川前駅間の上り線(いわき行き)で普通列車がイノシシと衝突し、一時運転を見合わせた。8月20日の宵にも同じ事故が起きた。

イノシシは夜間(人がいなければ昼間から)、活発に動き回る。夏井川渓谷ではときどき、土手や空き地が激しくほじくり返される。

渓谷にある小集落の住民からはこの二十数年の間に、イノシシが列車にはねられたという話を何度か聞いた。10年前の事故も、渓谷と地続きの山野で動き回っている1頭だったのだろう。

 3・11後は明らかに事故が多発している。原発事故の影響でイノシシ猟をする人が減り、山中をバッコするイノシシが増えた。

 そんな感慨が脳内に刻み込まれているところへ、今度はカモシカがはねられたという。磐東線の動物事故に新たな大型動物が加わった。

 10月4日の県紙に、列車の遅れを伝える小さな記事が載った。3日午後6時15分ごろ、磐東線の江田―川前駅間で下り普通列車がカモシカをはねた。それが遅れの原因だった。

ネットにアップされたテレビのニュースでは、列車は事故のあと、川前駅まで移動し、異常がないことを確認して運転を再開した。

 江田―川前駅間といえば、わが隠居がある夏井川渓谷ではないか。渓谷ではこの何年かカモシカの目撃情報が絶えない。

私自身、令和2(2020)年3月20日に渓谷の県道でカモシカを目撃した=写真。そのときのブログを要約・再掲する。

――カモシカに遭遇した場所は夏井川第一発電所への進入道路がある上小川字竹ノ渡戸地内の県道。時間は午後4時前。

渓谷の隠居からの帰り、落石を防ぐロックシェッドを過ぎた先のカーブに、1頭がのっそりと立っていた。

それをブログに書くと、隠居の隣の集落に住む友人などから目撃情報が相次いだ。友人はその1年前の4月に平の職場へ通勤途中、ロックシェッドの手前でうろうろしているカモシカを目撃した。翌5月にも自宅の裏山で遭遇した。

カモシカは国の特別天然記念物。阿武隈高地では見かけなかったが、生息数が増えて低地にも出没するようになったと、ウイキペディアにある。友人は「県道にカモシカ注意」の看板を立てた方がいい、という――

 ほかにも、平成23(2011)年秋あたりから目撃談が耳に入るようになった。渓谷を底に、周辺の山ではもうカモシカが定着・繁殖していると見た方がいいのではないか。そう考えていたところへ列車との衝突事故が起きた。

 イノシシは今も渓谷をはいかいしている。土手などが掘り起こされているのでわかる。

そして、今度の事故だ。カモシカも渓谷を普通にうろつき回る「前兆」のような気がしてならない。ツキノワグマも、とはならないだろうが……。

2024年10月4日金曜日

節目の日

                            
   年度替わりの3月末~4月初めと折り返しの9月末~10月初めは、なにかと気ぜわしい。今年(2024年)はとりわけ、「9月30日まで」と「10月1日から」を意識して過ごした。

区内会の仕事をしているので、毎年10月1日現在で世帯数を調査し、後日、市に報告する。

年度の半期ごとに隣組の班長が代わるところがある。少なくとも9月30日までに新班長(集合住宅の場合は何号棟の何号室まで)を把握していないと、回覧資料を届けられない。報告が遅い場合はとりあえず旧班長さんに届ける。

10月1日は、県の広報と「広報いわき」のほかにもう一つ、戸別配布の資料がそろった。まとめて入れた袋が集合住宅1階の郵便受けに入れば問題はない。が、そうでないときは部屋まで届けないといけない。

心肺機能が衰えた人間には、階段の上り下りはこたえる。さて、どうなるものか。いずれも郵便受けに収まったので、それだけでもうやれやれという気になった。

回覧資料の配布では水面下のやりとりもあった。地元の公民館まつりのチラシも、併せて配る予定だった。開催日は10月27日、場所は小学校の体育館。

自民党総裁選に続く10月1日の臨時国会で新首相が決まり、急きょ、10月9日衆議院解散、15日告示、27日投開票が浮上した。

それが現実になると、体育館は投票所に変わる。公民館まつりは延期か会場変更を余儀なくされる。前日、公民館に連絡して、とりあえずまつりのチラシの配布を保留することにした。

秋まつり真っ盛り。ほかの地域でもイベントの日程や会場を再検討する動きが出たにちがいない。

投票所の管理者と立会人には誰が、というよりどこの区長がなるのか。それも含めて、中央の「突風」がたちまち地方に吹き荒れた。

9月30日もあわただしかった。朝、病院へ薬をもらいに行き、夕方はカミサンのアッシー君を務めた。

いわき駅前の市川パン店が同日で廃業した。カミサンがパンを予約していた、丸テーブルと角テーブル=写真=も譲り受けた。

古巣のいわき民報は、9月30日が最後の夕刊だった。10月1日からは朝刊に切り替わった。

創刊は昭和21(1046)年2月で、私は昭和46(1971)年からざっと37年間勤務した。

新型コロナウイルス感染症が世界的に流行し、それが日本にも及んだ。いわきでも会議やイベントの中止・延期が相次ぎ、紙面を埋める記事が激減した。

それを補うために令和2(2020)年5月中旬、拙ブログの活字版「夕刊発・磐城蘭土紀行」が始まった。

当然、「夕刊発・磐城蘭土紀行」はタイトルを替えないといけない。「朝刊発・磐城蘭土紀行」として再出発をした。

パソコンの安全対策でも、10月1日から新機能を提供し、今あるサービスを終了する、といった内容のメールが入った。

パソコンに詳しい若い仲間に連絡して来てもらい、迷惑メールではないことを確認して、必要な操作をしてもらった。やれやれ、である。

2024年10月3日木曜日

昭和8年の「磐新歌壇」

                     
 いわきの若い人たちの間で、戦時下の昭和19(1944)年、27歳で亡くなった歌人田部君子(1916~44年)を顕彰する動きが出ている。

 3年前の令和3(2021)年秋、勿来文学歴史館でスポット展示「田部君子――清きほこりを高くかかぐる」が開かれた。これも背中を押した。

 田部君子は今のいわき市遠野町上根本に生まれ、平で育った。少女時代から短歌雑誌「潮音」に投稿し、その才能が注目された。しかし、短歌の創作期間は16歳から22歳までのわずか7年だった。

 この歌人を、自転車によるいわきの「時空散走」マップづくりを手がけるグループが再発見した。10月1日のほかに11、26日、11月10日と、「田部君子フェスティバル」を繰り広げる。

草野心平記念文学館のパンフレットスタンドから各館のイベント情報を伝えるチラシを持ち帰った話を前に書いた。

そのなかに、いわき芸術文化交流館「アリオス」のダンス・プロジェクト「時空おどりびと 田部君子編」(26日・いわき駅前大通り路上)があった。

別の日、街の食堂に入ったら、レジのわきに「いわき駅前公園化計画」と田部君子フェスティバルのチラシがあった=写真。田部君子のイラストに誘われるようにして手に取った。

「いわき時空散走プロジェクト」で「平」をリサーチする中で、田部君子に出会ったという。

田部君子フェスティバルでは平のまちを舞台に、時空散走とも重なるかたちで、夭折の歌人を紹介する。

勿来文歴が作成した田部君子略年譜には、昭和8(1933)年、小山田滋が磐城新聞歌壇欄の選者になり、16歳の君子が同新聞の新年懸賞歌に投稿、とある。

磐城新聞なら図書館が紙面を電子化したので、ホームページで閲覧できる。さっそく昭和8年の元日号をのぞく。

1面に、上から社告、歌人島田忠夫らの新春詠が載り、その下に「磐新歌壇/新年懸賞歌/題 水 雪/小山田滋選」の短歌が掲載されている。

田部君子は1等1人、2等2人のあとの3等3人の筆頭に入賞していた。「ひとひらのこの小雪をも春のものと思へばうれしけさの初雪」

選者の小山田は「才気縦横の歌を作られるようだ。将来もう少し歌を沈潜せしめ、深く掘り下げた内面的のものに進まれる可(べ)きであらう。と言ってこの雪の歌は勿論軽妙な逸作であることを否定する者ではない」と評する。

アリオスのチラシの年譜によれば、「潮音」への初投稿はこのあと、同年6月号である。

ついでながら、別のチラシ(いわき駅前公園化計画)については、私はこんな期待を抱く。

いわき市の中心市街地・平には人が集い、憩える街角がない。若いときからそう思ってきた。要は、パリのカフェ「フーケー」のような店が平の街角にほしい、と。

 街角にあるフーケーは通りに開かれた店で、外にもテーブルとイスが置かれている。その延長で歩道が市民の憩いの場になると楽しい。それこそが「公園化」ではないだろうか。

2024年10月2日水曜日

イベント情報

                               
 図書館や文化施設にはパンフレットスタンドがある。ときどき足を止めて、他県や他施設のイベント情報を頭に入れる。

 先日はいわき市立草野心平記念文学館のスタンドから、大洗町幕末と明治の博物館(茨城県)、かごしま近代文学館(鹿児島県)などのチラシを持ち帰った=写真。

 チラシの中身は各施設の企画展開催予告が中心だが、なかには単発のイベント情報もある。

 さらに、同じ文学者でも生まれた土地や生活した土地、亡くなった土地では、企画展の視点・切り口が異なる。

 たとえば、詩人・牧師の山村暮鳥(1884~1924年)。彼は群馬県で生まれ、磐城平(いわき市)などで布教と文学活動を繰り広げ、茨城県大洗町で亡くなった。

今年(2024年)、生誕140年である。いわきの総合図書館は、令和6年度前期常設展として、「生誕140年記念 三猿文庫の中の山村暮鳥と竹久夢二」を開いている。

 暮鳥と夢二に交流があったかどうかはわからないが、それぞれがいわきに足跡を残した。

それを、三猿文庫(元は私設図書館。遺族が資料を市に寄託、総合図書館に「三猿文庫」コーナーができた)の資料から、主にいわきとのつながりを紹介している。

終焉の地、大洗では「生誕140年」のほかに、「没後100年」の記念展「山村暮鳥と大洗~おうい雲よ~」が10月12日から12月17日まで開かれる。「没後100年」がプラスされているのは大洗ならでは、だろう。

「おうい雲よ」ときたら、「ゆうゆうと……」と続く暮鳥の雲の詩の代表作が思い浮かぶ。初出は大正13年1月に磐城平で発行された同人誌「みみづく」第2年第1号である。

「おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか」

「おうい雲よ」には最初、読点が入っていた。タイトルは「友らをおもふ」で、研究者は、この詩が相聞歌ではない証拠として、「友ら」と複数になっているタイトルを挙げる。暮鳥を研究する上では重要な文献の一つではある。

大洗のチラシには、磐城平の詩友らに呼びかけた雲の詩についての記述はない。代わりに別の雲の詩が載る。

「雲もまた自分のやうだ/(中略)/おう老子よ/こんなときだ/にこにこして/ひょっこりとでてきませんか」

昭和2(1927)年5月、大洗の海岸の松林の中に、小川芋銭筆による「ある時」という詩碑が立った。その芋銭の書による暮鳥の詩である。

暮鳥と盟友関係にあった三野混沌(吉野義也)とは別に、混沌の妻の吉野せいもまた暮鳥とは交流があった。

夫の死後、せいは息子の運転する小型トラックで埼玉県まで苗木や鉢物を買いに行き、帰りに大洗の暮鳥の碑を訪ねる(『洟をたらした神』所収「夢」)。

大洗には大洗の視点がある。しかも、空を行く雲に託した暮鳥の内面が透けて見えるような気さえする。あらためていろいろ触発されるチラシがあった。ほかのチラシにもいずれ触れたい。

2024年10月1日火曜日

翅が三角形の蛾

夕方、庭の方から声がかかったので、カメラを持って出た。外の流しで、翅が三角形の蛾が2匹、交尾していた=写真。

初めて見る蛾だ。写真データをパソコンに取り込み、簡単にスケッチしたのを見ながら検索すると、ほどなくセスジスズメらしいことがわかった。

幼虫(イモムシ)の食草はサトイモやサツマイモの野菜だけでなく、つる植物のヤブガラシだという。

ヤブガラシは春になると、いやなほど庭に芽を出す。毎朝、歯を磨きながら新芽を摘むのだが、次から次に現れるのでとめどがない。

ネットであれこれ調べているうちに、「芽むしり」は対症療法にすぎない、根本的な解決策は地下茎の除去しかないことを知った。

ではと、何年か前に試したことがある。新芽の生え出た地面にフォークを突き刺してグイッとやった。が、地中に根づいている茎は、そのくらいでは簡単には浮き上がらない。

それでも、10分くらい続けるうちに結構な量の地下茎をはぎ取ることができた。新芽は5~10センチ間隔で出てくる。すさまじい生命力だ。

しかし、新芽は別の場所からも現れる。そのつど、芽むしりをする。今年(2024年)の春もそうして芽むしりをしたが、やはり取り残しがあった。

夏、生け垣に絡まったヤブガラシが花を咲かせていた。「ああ、手抜きをしてしまった」と後悔する。

 セスジスズメの成虫を見て、庭に現れても不思議ではないと思ったのは、むろんヤブガラシが生え出て、生け垣につるをからめるからだが、交尾を終えたメスの産卵の仕方を知って、なるほどと感心した。

 メスは飛びながら、幼虫が食べる草、たとえばヤブガラシに卵を1個ずつ産みつける。卵は1週間ほどでかえり、葉を食べて成長し、土にもぐって最後の脱皮をしてさなぎになる。それで越冬し、5~6月に羽化して、夕方から夜にかけて活動する。

 その生命のサイクルを、知らない間にわが家の庭でも繰り返していたのかもしれない。

 成虫の翅の紋様と形が変わっている。ネットには、ハンググライダーのような翅、という表現があった。しかも翅の紋様はわりと直線的だ。

 前にハグルマトモエが茶の間に現れたときにも、羽の紋様に驚き、興味を引かれた。セスジスズメも第一印象はそうだった。

昼間の蝶は、アオスジアゲハであれ、キアゲハであれ、だいたいは目撃して写真を撮ったり、調べたりしてきた。

蛾は、遭遇する機会が少ない。が、主に夜、飛び込んで来る。紋様がおもしろいものはやはり気になる。

 あるときは食事中、よくわからない蛾が現れて餃子のたれに飛び込んだ。蛾がその中ではばたくので、たれが食卓に飛散した。

あわててたれの入った小鉢を手で押さえる。てのひらが飛散したたれでべとべとになる。きれいなままだったら写真を撮って調べるのだが、これは早々にカミサンが片付けた。