病室は5階南側。廊下をはさんで北側の病室から水石山(三和)が見える。ついでだから、内郷・鬼越の切り割りを通る市道(東側)と国道49号バイパス(西側)はどこに、と探ったが、廊下からはわからなかった。
切り割りの49号バイパス沿い、好間側の丘に「小館(こだて)」というところがある。その東方、市道の切り割りから東側は、同じ好間の「大館(おおだて)」。切り割りにする前は、阿武隈高地の東縁から指のようにせり出した一連なりの丘陵だった。
いわき民報が平成7(1995)年に連載した「しんかわ流域誌」のなかで、中山雅弘さんが「戦国大名岩城氏と城下町」と題して書いている。「岩城氏が戦国大名になると、拠点を白土から大館に移します。現在、大館はいわき市平の大館と好間町の大館と二カ所が隣接していますが、岩城氏一族が主に住んでいたのは平の大館で、好間町・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)です」
アジア・太平洋戦争で捕虜になった連合軍の兵士が、古河好間炭鉱で働かされた。その宿舎が小館にあった。それを知って以来、小館と大館の関係が気になってしかたがない。
たびたび言及しているので恐縮だが、吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。「麦と松のツリーと」に、若い捕虜がせいたちの住む菊竹山(小館の向かい山)へクリスマスツリー用の木を探しに来る。モミの木はない。代用として、こじれた若い松を採る。
以来、捕虜収容所のあった小館について、地形・地質はもちろん、戦国時代から近代まで、通しで歴史を押さえておきたくなった。
「詰め城」のあった大館は、南に新川流域を望む。丘の北西端に位置する小館は、北に好間川流域を望む。戦国時代、眼下の領地を見守るように、大きな「詰め城」と小さな「詰め城」があった? つまり、大館に対して小さいから小館? はたまた、それとは関係なく、大館は大館、小館は小館?
考古や歴史の門外漢は、専門的な常識からはずれて好き勝手に空想する、いや、思いつきや結びつき、ひらめきを楽しむ。大館・小館のつながりの有無をいつか中山さんに聞いてみよう。
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