ある日の午後、平消防署前の交差点で信号待ちをしていると、歩道の花壇で土いじりをしている人が目に留まった=写真。ポットの花苗を移しているようだった。マリーゴールドらしいが、車からはよくわからない。
作家の角田光代さんの文章が思い浮かんだ。彼女が書き、カメラマンの平間至さんが写真を撮った。確か「文藝春秋」に載った大手不動産会社のコマーシャルだ。タイトルは「ささやかさ」。
「差し出されたお茶とか、/てのひらとか。/毎朝用意されていたお弁当とか、うつくしい切手の貼られた葉書とか。/それから、歩道に咲くちいさな赤い/花とか、あなたの笑顔とか。/私たちは日々、だれかから、/感謝の言葉も見返りも期待されない/何かを受け取って過ごしている。/あまりにもあたりまえすぎて、/そこにあることに、ときに/気づきもしないということの、/贅沢を思う。幸福を思う。」
「凡事徹底」を社是としている会社へ行ったときと、京都の清水寺の散策路でブロアーを手にして落ち葉を吹き飛ばしている人を見たとき、やはり角田さんの「ささやかさ」を思い出した。
清水寺では思わず作業をしている人に声をかけた。「毎日やってるの?」「そう、第二の人生」。定年で自分の仕事を終えた人が、境内の散策路をきれいにする作業に生きがいを見いだしていた。美観だけでなく、観光客が落ち葉で足をすべらせないように、という配慮もあるのだろう。
ポイントは、「私たちは日々、だれかから、/感謝の言葉も見返りも期待されない/何かを受け取って過ごしている。」。きれいな花壇の向こうには、それを維持している人がいる。その人は別に、そのことを認めてほしくてやっているわけではない
花壇と比較するわけではないが、消防署の先の歩道沿いに「ごみ屋敷」がある。きのう(7月13日)、車で通ると、歩道と家との境にパイプで仕切りのようなものが組まれていた。道路管理者の県が歩道にごみ袋があふれるのを防ぐために“壁”を設けたか。
大家が借家人である老人に退去を求めて提訴――という小さな記事を、前に県紙で読んだ。それも含めて、なにか変化があるのかもしれない。
けさは用があって消防署の近くへ出かける。“壁”がどんなふうになったのか確かめよう(追記=パイプの足場に2階部分から幕のようなものがかけられていた。通りからごみ袋を見えなくする“壁”だったか)。
社会は雑多なものがまじりあって流動している。花壇の手入れも、「ごみ屋敷」の“壁”も、流動する社会の一コマではある。
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