2019年7月18日木曜日

小館は大館の支城だった

 先日、いわき市好間町の大館と小館のことを書いた。どちらも同じ丘陵にある。大館は平と好間にまたがっている。戦国大名・岩城氏一族が主に住んでいたのは平・大館で、好間・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)だった。小館は大館に対してそう呼ばれたのか?
図書館から『よしま ふるさとの歴史探訪』(好間地区関係団体会議、平成10年)を借りて読んだ。両者の関係が少しわかった。同書では平・好間と分けずに、単に大館として扱っている。小館はその支城だった。

「大館は城を持たない館であったが守備範囲は広く、西は小館、南は御台、東は薬王寺、物見ケ岡の点を結んだ中と推察される」。西から四つの切り通し(国道49号バイパス、国道49号・JR磐越東線など)があるが、歴史的には、小館からいわき駅裏の物見ケ岡まで一連なりの丘陵だった。

同書はまた、大館の支城は150~180館あり、主要な館を「岩城四十八館」と呼んでいたという。「特に小館は東西・南北500メートルの台地で大舘の西に位置し、大館への飲料水路の要点にあたり、岩城氏の重臣、好島氏の代々居館で武者落しの地名が伝えられている」。「大」に対する「小」かどうかはともかく、大館と小館は密接な関係にあった。

なぜ大館と小館の関係が気になったかというと、同じころ読んだキノコの本のなかで、画家の安野光雅さんが「わらいたけ」(笑い茸)と「なきたけ」(泣き茸)について書いていたからだ=写真右。

ワライタケは、オオワライタケも含めて幻覚や笑いを引き起こす毒キノコだが、ナキタケは安野さんが創案したものだろう。ワライタケがあるならナキタケがあってもおかしくない――そんな対語的発想で架空のキノコを生み出した。

そこから、大小、陰陽、凹凸……といった対語探しが始まった。「前倒し」と「後ろ倒し」。「後ろ倒し」は、春にNHKのニュースで知った。「先送り」と同義だろう。「前例」に対する「後例」もネットにあった。「後例」はまったくなじみのない言葉だが、「前例」の対語としてはあり、か。

ついでにいうと、地名の上・中・下は川の流れに対応している。上・中・下神谷と夏井川の関係でいえば、上神谷は私の住む中神谷の元上流(川の流路が変わった)、下神谷は下流に位置する。上・中・下平窪(夏井川)、そして上・中・下好間(好間川)も同じ。

ただし、上越・中越・下越は川ではなく、京都(当時の首都)からの距離の遠近によるものだとか。「上京」が京都から東京に変わったように、鉄道や国道の上・下も東京が基準になった。

 大館と小館の話に戻る。グーグルアースで両者の位置関係をみる=写真上。東端、矢印のあるところが好間・大館。北西端、青い屋根が複数見られるところが小館。その距離は高坂の元ゴルフ場をはさんで、およそ3.5キロ。もし尾根沿いに道があるとしたら、切り通しの上り下りを加えて、格好の“山歩”コースになる。

0 件のコメント: