2019年7月28日日曜日

捕虜収容所通訳兵の小説

吉野せいの作品集『洟をたらした神』に収められた作品の注釈づくりをしている。「麦と松のツリーと」に、好間の炭鉱で働かされた連合軍の捕虜たちが登場する。
その注釈に欠かせない資料がある。古河好間炭鉱の捕虜収容所の実態について調べたPOW(プリズナー・オブ・ウォー=戦争捕虜)研究会・笹本妙子さんのレポートだ。「麦と松のツリーと」も引用し、さらに通訳N氏の娘さんから提供された当時の写真も掲載して詳細を極める。

いわきの捕虜収容所は湯本にもあった。こちらの捕虜は常磐炭砿で働かされた。この捕虜収容所についても笹本さんが詳細なレポートをまとめている。

最近、思い立って図書館の蔵書を検索し、2冊の本を借りた=写真。1冊はデリク・クラークという人が書いた『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人――知られざる日本軍捕虜収容所の真実』(ハート出版)。もう1冊は同人詩誌「第二次 ERA」第5号。生前未発表だった福島県生まれの詩人菊地貞三(1925~2009年)の小説「ひとりのときに」を掲載している。

注釈づくりは、横道にそれたり脱線したりする面白さがある。それで、注釈そのものが広く深くなる。今回は特に「発見」する歓びを味わった。

『英国人捕虜――』は東京の収容所の話だが、クリスマスの行事が「麦と松のツリーと」を補完してくれる。小説「ひとりのときに」は、終戦間際の昭和20年4月、菊地が大学出の幹部候補生=通訳兵として赴任した湯本の捕虜収容所での体験を描いた。

タイトルが「ひとりのときに」とは少し感傷的ではないか、と思いながら読み進めたが、ラストシーンでその意味が分かった。

まずはこの文章から――。「この三月、東京は米軍のB29の大編隊の爆撃を受けて、下町など相当の被害を受けたという。/それどころではない。つい先ごろ、この近くのT市さえ空襲された」

 T市、すなわち平市(いわき市平)。平空襲のことだ。3月の東京大空襲と同じ日、B29が1機、鹿島灘方面から平市街に現れ、100発の焼夷弾を投下した。平・西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などで294軒が炎に包まれ、16人が死亡、8人が負傷した。

平ではこのあと、敗戦間近の7月26日朝、つまりおととい、B29爆撃機1機が投下した1発の爆弾で平第一国民学校(現平一小)の校舎が倒壊し、校長・教師の3人が死亡、60人が負傷した。さらに7月28日深夜、つまりきょう、北から侵入して来たB29爆撃機3機が大量の焼夷弾を投下し、平駅前から南の田町・三町目・南町・堂根町など約6ヘクタールを焼き尽くした。

「ひとりのときに」にB29が現れたときの様子が描かれる――。収容所にはカナダ、イギリス、オランダ兵など600人近くが収容されていた。B29が上空を通過すると、捕虜たちは建物から表に出て「空を仰ぎ、思い思いに叫び、手を振る」「俘虜収容所に空襲の脅威はない。収容所の所在位置は敵機も知っているし、俘虜もそれを心得ている」。

収容所には塀が設けられたが、それは捕虜の逃亡を防ぐためではなく、周辺住民の投石などから捕虜を守るためだった、という古参兵の打ち明け話も――。

外国人捕虜、監視する側の日本兵、通訳兵、捕虜収容所周辺の住民と、多様な視点から戦争と捕虜収容所の実態に迫る。

 捕虜たち自身が主催する音楽会が夜、食堂で開かれる――。ラストの曲は「ソリチュード」(孤独)。アメリカで大ヒットした歌で、戦場では「オランダ兵でもみんな歌って」いた。歌が始まると、大合唱になり、食堂から広い庭へと捕虜たちが歌いながら出ていく。「俘虜たちは、あちらに二、三十人、こちらに十五、六人というふうにかたまり、あるいは立ち、あるいはしゃがみ、松の幹によりかかり、思い思いの姿勢で歌い続けた」

♪イン マイ ソリチュード(ひとりのときに)……。小説のタイトルはその歌のことばだった。映画を見ているようなラストシーンだ。

ネットで歌を検索して聴いた。菅原洋一の「知りたくないの」が思い浮かんだ。デューク・エリントンが1934年に作曲したジャズスタンダードだとか。今度はこっちの方へ寄り道してみるか。

0 件のコメント: