とはいえ、東北南部が梅雨入りしてまだ1週間もたっていない。土曜日(6月13日)は朝から雨だった。平・神谷(かべや)地区の区長8人が、平六小の裏山にある旧神谷村の「忠魂碑」と「殉国碑」、それに同小前の立鉾鹿島神社の境域にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」の周りを清掃することになっていた。集合時間に神谷公民館へ行くと、「雨でも決行」と決まった。
忠魂・殉国碑は東西にのびる丘の一角にある。周りは常緑・落葉樹が生い茂り、あまり日光が差し込まない。雑草は碑の前に少しあるだけ。雨は緑の葉に抑えられながらも降ってくる。私ともう1人を除いたほかの区長さんは農家だから、草刈り機を持参し、合羽と長靴といういでたちだ。私はたちまち帽子がぬれ、ベストがぬれ、ズボンのすそとスニーカーがぬれた。
あっという間に草刈りが終わった。忠魂・殉国碑の周りに、近くから調達した細い竹を立て、しめ縄を張り、紙垂(しで)をつるした=写真上。お神酒を上げて、二礼二拝一礼をした。それで丘の上の作業と慰霊祭は終わり。
コロナ問題がおきて“3密”を避けるために、さまざまなレベルの行事・会合が中止か延期になった。そうしたなかでも忠魂・殉国碑と戊辰役各藩戦病歿者追福碑の清掃は、中止するわけにはいかない。緊急事態宣言が解除されたこと、野外の活動であること、密になる必要がないことなどもあって、雨だが予定通り実施した。新年度に入って最初のリアルな集まりになった。(追福碑はきれいになっていたので慰霊祭のみ実施)
コロナ問題では学校も大きな影響を受けた。長い休業期間を取り戻すように、土曜日も授業が行われていた。その様子をチラリと見ながら険しい参道をのぼった。
戊辰の戦病歿者追福碑=写真右=には「各藩」が入る。笠間藩の分領だった神谷には陣屋が置かれていた。本藩が新政府軍に加わったため、陣屋も隣の磐城平藩をはじめ奥羽越列藩同盟を相手に、孤立無援の戦いを強いられた。結果、周りは“負け組”、神谷は“勝ち組”に入った。勝ち負けなく弔おうとなったのは、分領出身者がその後、代議士などになったことも関係しているのではないかと、今は考えている。
ついでながら、作業開始というときにだれかが声を上げた。「風邪は引けないな、病院が受け付けてくれないから」。作業が終わって解散すると、すぐ帰宅して風呂に入った。
作家の故池波正太郎さんが『男の作法』のなかでこんなことを語っている。「冬なんかに、ちょっときょうは寒い、風邪を引きそうだなあと思ったときは、入浴をしても背中は洗わないほうがいいよ。(略)背中の脂っ気がなくなってカサカサになっちゃうと、そこから風邪が侵入してくるわけ」
雨で背中が冷えた。それを実感したので、まずは背中を温めることにした。翌朝は鼻が少しぐずついたが、それはたまにあること。月曜日になると平常に戻り、風邪の心配はなくなった。
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