2020年6月24日水曜日

川砂採取

私の知る近隣の行政区では、定期的に川の堤防と河川敷の草刈りをする。日曜日(6月21日)、平・塩区内の夏井川の堤防を通ると、あおくさい草の匂いが車中に飛び込んできた。草刈りをしたばかりだということがわかった。
去年(2019年)秋の台風19号は至る所にツメ跡を残した。そうした状況のなかでの草刈りだから、段取りには苦労したのではないか。

問題はしかし、草より土砂。わが生活圏、平市街の東端を流れる夏井川の下流、鎌田~中神谷には上流から運ばれてきた土砂が、場所によっては1メートルも積もった。河川敷のサイクリングロードはそのため、一時、利用ができなくなった。

さらに下流、下神谷の北部浄化センター付近では、およそ50メートルにわたって流木が残り、サイクリングロードをふさいだ。土砂まじりだったのか、今はその「災害ごみ」に草が生えている。

河口に近い平地では、川はS字状に蛇行する。それを利用して、旧神谷村の夏井川では2カ所で定期的に川砂採取が行われている。1カ所は新川との合流点、塩地内のS字カーブ。左岸に砂州が広がる。もう1カ所はそこからざっと800メートル下流の中神谷字調練場。やはり、左岸に砂州が広がる。

パワーショベルが川に入り、砂山を築いて、ダンプカーが土砂を運搬する。塩が終わると、下流の調練場に移る=写真。今回は、塩での川砂採取がいつもより長期にわたったという。それだけ台風19号の置き土産が多かった、ということだろう。

河川には3作用がある。岩石が水に「侵食」されて岩くずになり、土砂とともに「運搬」され、流れがゆるやかになったところで砂などが「堆積」することを指す。しかし、たった1回の大水で1メートルもの土砂が堆積する、などということはこれまでなかった。

歴史的にみても、神谷地区では大水に悩まされてきた。この地区は、江戸時代後期は笠間藩の分領だった。延享4(1747)年、まず、街道(現在の旧道)から南に少し引っこんだわが行政区内の苅萱に陣屋がおかれる。ところが、裏手の夏井川がはんらんして、ときどき水害に見舞われた。

そこで文政6年(1823)、600メートルほど離れた小川江筋沿いの山際に移転した(明治維新後は小学校=現平六小になる)。調練場という地名は、旧陣屋時代、陣屋詰めの侍の兵式調練場に利用した名残だという。

陣屋がわが行政区内にあったことを、つい最近まで知らなかった。神谷地区はネギの産地として知られる。それもまた大水によって上流から土砂がもたらされた結果だ。調練場、ネギ、旧陣屋……。水害常襲地帯に住んでいるという自覚を持ち、大雨時の早めの避難に結びつけるにはどうしたらいか。まずはこの史実をどうやって行政区内の共通認識にするか。それを考えてみよう。

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