平成20(2008)年1月5日、いわき湯本温泉街に野口雨情記念湯本温泉童謡館がオープンした。温泉旅館古滝屋社長の故里見庫男さん=いわき地域学會初代代表幹事=が湯本時代の雨情について調べ、資料を収集した。それを寄贈して、市民組織で運営が始まった。
初代館長の里見さんに頼まれて目録づくりを手伝い、毎月1回、同館で文学教室(童謡詩人の紹介)を開いた。「最初は金子みすゞ。あとは自由」。初めだけ注文がついた。図書館でみすゞを調べてゆくうちに、水戸で生まれ、平で育った島田忠夫がみすゞと双璧をなす童謡詩人であることを知った。それだけではない。忠夫は歌人であり、名だたる天田愚庵研究家でもあった。
いわきでみすゞ展が開かれる以上は、忠夫にも光が当たるはず――。みすゞ展を告知するチラシの裏に、「彼女と並び『巨星』と称されたいわきゆかりの童謡詩人・島田忠夫(1904~1945)をあわせて紹介します」とあった。ぬかりはないようだ。
7年前、拙ブログで「童謡詩人島田忠夫」について書いた。みすゞ展観賞の参考になるかもしれないので、再掲する。
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水戸で生まれ、平で育った童謡詩人島田忠夫(1904~45年)は、昭和初期、しばしば平の地域新聞に作品や文章を寄せている。昭和3年7月27日から8月8日まで10回にわたって「常磐毎日新聞」に掲載された「九州游記」もその一つ。
「九州へぶらり旅したのは二月末であった」という一行から、紀行文は始まる。初めて足を踏み入れる「九州には、私の作品を読む二三の未見の友人が居る丈け」、その一人「K君」に会い、地元の名士に歓待を受けたことなどが、時系列的につづられる。平凡な紀行文だが、忠夫の軌跡をたどるうえでは貴重な資料になりうる。
この旅の帰り、忠夫は下関に文通相手の金子みすゞを訪ねるが、病臥(びょうが)していて会えなかった。紀行文では、それには触れていない。「K君」とはおそらく天才少女詩人といわれた海達公子(かいたつきみこ=1916~33年)の父親。紀行文からはやはり、それらしいことはうかがえない。
一つ年上のみすゞと忠夫は雑誌「童話」の童謡欄常連だった。選者の西條八十は「島田忠夫君と並んで、彼女はまさしく当時の若い童謡詩人の中の二個の巨星であった」と、のちに振り返っている。みすゞは、忠夫が訪ねて会えなかった2年後に自死する。
いわき総合図書館のHPに<郷土資料のページ>がある。大正~昭和時代の地域新聞が電子化され、いつでも、どこからでも閲覧できるようになった。まずは忠夫の作品や論考、随筆などをじかに吟味できるのが、私にはありがたい。
今やみすゞは輝きをまし、忠夫は忘れられた存在となった。とはいえ、みすゞとの関係からだけでもいい、忠夫にもっと光を当てられないか。みすゞ研究者、広く童謡研究者に、いわき総合図書館の「電子新聞」を閲覧してもらいたい、という思いがつのる。
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原発事故のときもそうだったが、今度の新型コロナウイルス問題でも、“教訓”にしているみすゞの詩句がある。「見えぬけれどもあるんだよ、/見えぬものでもあるんだよ。」(「星とたんぽぽ」)。みすゞ展の前評判は高い。わが家(店)にもポスターが張ってある。何人かがみすゞ展の話をしていた。こんなことは今までなかったように思う。
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