「サーフィン」は震災前、海岸堤防のそばにあった。店は自宅と接続していた。津波で店が流され、2階建ての自宅も1階の壁が抜けてがらんどうになった。薄磯だけで約120人が亡くなり、集落がほぼ消滅した。ママさんも義理の弟夫婦など身内6人を失った。
その後、被害の大きかったいわきの沿岸部で震災復興土地区画整理事業が進められる。薄磯も集落の背後にあった丘を切り崩して「高台住宅」地がつくられ、切り土を利用して低地部をかさ上げし、海岸堤防そばに「防災緑地」が設けられた。ママさんは高台住宅のふもとに店を建て、通いで営業を再開した。
震災後、避難道路を兼ねて薄磯から裏の丘を越えて県道小名浜四倉線に直結する道路が新設された。それを利用して薄磯へ直行する。ママさんが孫たちと一緒に店の前にいた。カミサンが声をかけると、「あなたに手紙を書こうと思ってたの」。カミサンも「あなたにあげるものがあったの」と応じる。
店は、コロナの問題があって閉めていた。「火曜日(6月2日)からやるの」。その準備も兼ねて来ていたのだろう。緊急事態宣言が解除された、近くに震災伝承みらい館ができた――これも背中を押したか。
目当ての震災伝承みらい館に入る。豊間中学校跡に建てられた市の施設で、入場料金は無料。マスクは必携だ。サーマルカメラで体温を測られ、タッチパネルに触れるための使い捨て手袋を渡される。入場制限が行われているので、館内には20人ほどしかいない。それでも、スペースが狭いから意外に入っているな、という印象だった。
展示物をざっとながめたあと、メーンの20インチスクリーンに映し出された、市民撮影の津波の動画を見た。大久川河口、江名、小名浜、岩間、鮫川河口……。当時の様子を想像して息をのみ、こみ上げるものがあった。
リーフレット=写真上=には、「東日本大震災の記憶や教訓を後世へ伝えていくため、当時の状況や復興に向けた取組みの様子を伝える『震災関連資料』の収集を行っています」「収集した資料は、整理と分類を行い『震災アーカイブ』として一元的に管理・活用していく予定です」とあった。「見せる」だけでなく「収集・管理・活用」が同館の大きな役目だ。
あれから満9年。薄磯は別世界のように変貌(へんぼう)した。震災前と同じく「いわき市平薄磯」地区がある。区画整理が終わったところは、「平」がとれて「いわき市薄磯」地区だ。サーフィンは薄磯三丁目(前は平薄磯字南街にあった)、震災伝承みらい館も同三丁目。半農半漁のムラのにおいを残す薄磯の古い地図はあったかなかったか。「現在地」の昔と今を知る上でも地図は欠かせない。今度行ったら確かめよう。
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