2021年5月7日金曜日

最後の「根室新聞」

        
 私と職場が一緒だった後輩が、最後の「根室新聞」を届けてくれた。彼女の友達が根室新聞社に勤めていたという。

 根室は、後輩にとっては特別な地。父親が乗り組んだいわきの漁船「第8協和丸」が花咲沖で遭難し、26人全員が帰らぬ人となった。いわきにゆかりのある作家真尾悦子さん(1919~2013年)の『海恋い――海難漁民と女たち』(筑摩書房、1984年)も、この事故を取り上げている。当時のいわき民報の記事を引用しながら、平成29(2017)年4月5日にブログを書いた。まずはその抜粋から。

 ――会社を辞めて間もない後輩が遊びに来た。雑談をしているうちに、「きょう(3月31日)は母の命日なの」とカミサンがもらした。すると、後輩も応じた。「私もけさ、父親の墓参りをして来ました」

真尾さんは『海恋い』の<あとがき>に本を書いた経緯を記している。漁村の女性の日常を知りたくていわきの浜で取材しているうちに、「同じ船で夫を亡くした人、ふたりと知り合いになった」「北海道花咲沖で遭難した大型漁船が、船ごと、乗組員二十六人行方不明のまま、六年経っていた。しかし、未亡人たちはいまでも夫の死を信じてはいない」。

その後、真尾さんは「見えない糸に引っぱられて花咲港へ通いはじめ」、作品を仕上げる。<あとがき>にある「ふたり」のうちの1人が後輩の母親だった。それが頭にあったので、父親の墓参りをしたと聞いたとき、3月31日に遭難したのだと了解したのだった。

いわき民報は、事故のあった昭和47(1972)年3月31日付で第8協和丸が消息を断ったことを伝え、翌4月1日付で詳報している。同船は小名浜漁協所属の遠洋底引漁船で、乗組員26人の多くは山形県人、いわき在住者は4人だった――。

 このブログを書いてから4年がたつ。根室新聞を手に取るのは初めてだ。ほぼブランケット判(朝日などと縦は同じだが横が少し短い)、4ページ。令和3(2021)年3月31日が最後の新聞で、1面トップに社告が載る=写真。

戦後の混乱期、昭和22(1947)年1月6日に創刊したが、紙齢2万2249号で休刊のやむなきに至った。根室市の人口減少や少子高齢化による労働力不足などが重なり、人材確保が容易ではなくなった。苦渋の選択だった、とある。

同じ1面に載った「根室の新聞小史と根室新聞の歩み」を読むと、いわきの地域紙と同じ流れをたどっている。太平洋戦争前の昭和16(1941)年2月、地元2紙が合併して根室新聞が誕生、さらに翌年、道内の11紙が統合されて今に続く北海道新聞が生まれ、戦後、新しい根室新聞が創刊される。

いわき地方でも太平洋戦争前、日刊5紙が合併して磐城毎日新聞が生まれ、やがて「1県1紙」政策の中で福島民報の磐城夕刊となり、戦後、いわき民報が誕生する。

根室新聞よりいわき民報は1年早く産声を上げたが、コミュニティペーパーとしての歩みは全く同じといってよい。

山田健太専修大教授によると、日本の新聞はナショナル(全国紙)・ローカル(県紙)・コミュニティ(地域紙)の3層構造だ。コミュニティペーパーは全国ではかなりの数に上る。

根室新聞では記事の末尾に記者の名字が入る。3人のほか、1面コラム「ダイヤモンド」は「霧」の一字署名。少ない人数で毎日、これだけのスペースを埋めていたのだ。大変だったろうな、よく頑張ったな――同じ世界に身を置いた者として、哀惜の念を禁じ得なかった

0 件のコメント: