2018年4月17日火曜日

暮鳥と「鬼坊(おにぼう)」

 いわきに縁のある詩人山村暮鳥は大正13(1924)年12月8日、茨城の大洗で、40歳で亡くなった。ついのすみかは「鬼坊裏別荘」。暮鳥研究者には先刻承知のことだろうが、「鬼坊」の読みがわからなかった。「きぼう」? 「おにぼう」?「裏」を入れて「鬼坊裏」を「きぼり」と読む?
 
 何カ月か前、思い出してネットで検索していたら、「鬼坊」に「おにぼう」の振り仮名のある文章に出合った。網元の屋号だという。しかし、もうひとつ、土地の人の証言がほしい。そう思っていたとき、大洗出身で今は北海道に住む知人から電話がかかってきた。これ幸いと、話が終わったあとに「鬼坊」の読みを大洗の仲間に聞いてほしい、とお願いした。
 
 日をおかずに答えが届いた。「鬼坊」は「おにぼう」だった。すると、一気にネットで網元の姓名その他の情報が手に入った。
 
 それよりちょっと前、カミサンが家の中の“紙類”を整理していたら、「山村暮鳥生誕百二十年・没後八十年記念/土田玲子・土田千草」と書かれた絵はがきセットが出てきた=写真。遺族から贈られた記念品を、いわき地域学會の初代代表幹事である故里見庫男さんからちょうだいした。2004年、つまり14年前のことだ。

 それから10年後の2014年。暮鳥の故郷、群馬県立土屋文明記念文学館で、生誕130年・没後90年記念展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」が開かれた。大洗でも、幕末と明治の博物館で「山村暮鳥の散歩道―詩と風景―」が開かれた。

 土屋文明記念文学館の企画展では、磐城平で大正13年1月に発行された同人誌「みみづく」第2年第1号が紹介された。現物は東日本大震災後のダンシャリのなかで、若い仲間(古本屋)が手に入れ、私が預かっていたものだ。
 
<おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか>。大洗で暮鳥が書いた雲の詩の代表作が載る。このときのタイトルは「友らをおもふ」で、暮鳥の愛弟子でもある斎藤千枝への“相聞歌”説をとる詩人・研究者もいるが、そうではない、という反論の、これは“物的証拠”でもある。

 で、そのことも踏まえて、「みみづく」の本物が出たことを拙ブログで取り上げたら、群馬の文学館スタッフの目に留まった。いわき市立草野心平記念文学館を介して、持ち主の了解を得て貸し出した。
 
 あとで土屋文明記念文学館から図録が送られてきた。結構、重要な扱いになっていた。暮鳥が新聞「いはらき」の連載や千枝への私信に「おうい、雲よ」を使っていること、しかし雑誌「みみづく」には「友らをおもふ」と題して「おうい、雲よ」が出てくることを示し、両方を比較すれば「おうい、雲よ」と詠んだ暮鳥の内面がおのずと推察できるようになっている。

 研究者でもなんでもない私の役割は、ここに何がある、あそこに何がある――そんなことを発信することだと、そのとき思ったものだ。要するに、記者の延長で何かを書き続けること。「みみづく」は、今は草野心平記念文学館が所蔵している。

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