2016年4月18日月曜日

かけがえのない日常

 あれから5年ちょっと。胸底に澱(おり)のように沈んでいる“見えないもの”への不安を除けば、震災前の日常が戻ってきたようにはみえる。が、その日常もまた、ほんとうは危険と隣り合わせなのだ。たまたま危険と危険の間をすり抜けて生き延びてきただけ――という見方もできる。3・11を経験したからこその「日常」観だが。
 おととい(4月15日)昼過ぎ、歩いて1分くらいの先で交通事故が起きた。歩行者信号機のある交差点で脇道から出てきたと思われる車がぶつかって、逆「く」の字に道をふさいでいた。物損ですんだらしい。その夜更け、そこから40メートルほどわが家寄りのところでボヤ騒ぎが起きた。消防車がやって来た=写真。「なにごと?」と近所の人たちが歩道にあふれた。

 おおむね人の暮らしは、朝がきたら起きる――日中は仕事に就く(子どもは学校で勉強する)――夜には眠る、その繰り返しだろう。特別なことはなにもない。それこそが日常というものだ。

 当たり前の日常にも波乱はある。大事に至らずに、小事でとどまっている分には「こんなこともあった」ですむ。東日本大震災で当たり前の暮らしが「かけがえのないもの」だったことを思い知らされた。その日常が事故や事件で一瞬のうちに暗転する。
 
「平成28年熊本地震」。熊本~大分の連続地震をテレビで見るにつけ、熊本地震は想定を越えた広域災害になりつつあるのではないか、という思いが募る。東北地方太平洋沖地震の場合、災害名は「東日本大震災」だった。それにならって、熊本地震は「九州北部大震災」と呼びたくなるほどの連続性をもっている。東へ、南西へ、中央構造線に沿って震源が拡大する気配だ。

 南西には鹿児島県の川内(せんだい)原発がある、東の愛媛県には伊方原発がある。いわきには東電1Fの建屋爆発・炉心溶融を経験し、いまだに帰還のかなわない人たちが多く住んでいる。そのいわきで人に会うと、熊本地震に関連して、「原発は大丈夫か」という話になる。「かけがえのない日常」を生きる庶民の間に、また“見えないもの”への不安が広がる。

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