2016年4月3日日曜日

ポプラ並木

 これはポプラ並木だろう=写真。いわきニュータウン内にある。この並木道を通るたびにスペインの詩人、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898~1936年)の短詩「水よ おまえはどこへいく?」を思い出す。17歳になるかならないかのころ、長谷川四郎訳で読んだ。その後、長谷川訳の『ロルカ詩集』(みすず書房)を手に入れた。ロルカは詩を読む喜びの原点になった。
 水よ おまえはどこへいく?
 わらいながらぼくは流れる
 海辺まで
 
 海よ おまえはどこへいく?
 
 流れをのぼって ぼくはさがす
 ぼくのやすむ泉を
 
 なにをおまえはしているのか ポプラよ
 
 いいたいことなどありません
 ぼくはふるえることができるだけ
 
 川と そして海から
 どこへぼくの望みを投げようか
 
 (あてもなくカラスが四羽
 高いポプラにきてとまった)

 海辺まで流れる「ぼく」(水)・泉へと流れをのぼる「ぼく」(海)・ふるえることができるだけの「ぼく」(ポプラ)がいる。わかりやすい擬人化だが、川と海から望みを投げるかどうか思案する「ぼく」はだれだろう。ポプラか、ロルカか。
 
 ポプラは写真で見るだけだった。川には物心づいたころから親しんでいた。この詩を読みながら、ふるさとの大滝根川を思い浮かべた。初めて水の流れを意識した。分水嶺を知り、流域を知り、川に沿って人が、物が行き来することを知った。
  
 ロルカはスペイン南部、アンダルシア地方のグラナダ近郊で生まれ育った。詩を地理学的に解釈する愚は承知のうえで、後年、同地方で海に注ぐ大河をネットで検索した。延長657キロのグアダルキビル川がある。グラナダの南を流れる支流のヘニル川もかなり長い。そうした長大な川と流域を想像しながらこの詩を読むようになった。
 
『ロルカ詩集』には長谷川訳のほか、小海永二訳がある。「水よ……」は、長谷川訳は少年のようにさっぱりした口調の「ぼく」、小海訳は少女のようにやわらかな口調の「わたし」だ。最初に「ぼく」に親しんだせいか、「わたし」にはなかなか入りこめない。

 たまたまネットでポプラを検索して驚いた。ポプラはラテン語のpopulus(ポプルス)からきている。語源を同じくすることばにポピュラー(ポップ、ポピュリズム)、ピープルがある。なんだろう、このつながりは――。
 
 にわかには信じられないので、検索を続けると、福岡大学情報数学研究室の柴田勝征教授のホームページにたどり着いた。教授は朝日の「天声人語」(2004年9月15日付)を読んで疑問をいだいた。
 
 看板コラムに、「ポプラ」と「民衆・人民」が語源を同じくする理由として「民衆がこの木の下で集会を開いたことから、この名前が起こった」とあった。ほんとうか? 教授が羅和・羅英辞典で調べたところ、「ポプラ」(女性名詞)と「民衆」(男性名詞)は同音異義語(橋と箸のようなもの)で、発音も「ポープルス」(ポプラ)と「ポプルス」(民衆)の違い(王子と叔父のようなもの)があることがわかった。

 ローマ市民がポプラの木の下に集まり、木陰で集会を開いたのが始まり――は俗説で、ネタ元の『語源辞典』が間違っていた。ロルカもびっくりだが、すると急にこの私の写真、ほんとにポプラかと心配になってきた。

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