2016年4月29日金曜日

祖父の家

 夏井川渓谷の隠居=写真=の玄関には庵号を記した額が掲げられている。「無量庵」という。故義父が名付けた。ときどき蕎麦屋に間違われる。その家の“前半生”がひょんなことからわかった。
 昭和40年代半ば(ざっと45年前)、いわき市平字長橋町の元味噌醤油醸造販売業のSさんの家を義父が譲り受けた。家を解体して、そっくりそのまま渓谷に移築した。新築するよりカネがかかったという。居間が二つ、それに台所、洗面所と便所。義父はこれに“展望風呂”を増築した。

 ざっと20年前、私ら夫婦が管理人を引き受けてから――。屋根瓦が古くなって表面のコーティングが消え、放置すれば雨漏りが始まるというので、瓦をふき替えた。手狭な台所も増改築し、濡れ縁を広くした。原発震災が起きると庭が全面除染の対象になり、土のはぎとり・客土が行われた。

 長橋・味噌醤油醸造販売業・S家――これが、わが隠居の“前半生”についてわかっているすべてだった。

 いわき地域学會の同世代の仲間にSさんがいる。最近、渓谷の隠居の元々の持ち主は「半兵衛」と言った、と聞いた。その話を親戚かもしれないSさんにすると、「それは祖父の家です」――親戚どころか直系だった。S家では代々、当主が「半兵衛」を襲名したという。

 4月上旬、渓谷に春を告げる花・アカヤシオが満開のころ、Sさんを隠居に招いた。Sさんは家の内外をじっくり見て回った。そのあと、対岸のアカヤシオの花を眺めながら、私にこの家の“前半生”を聞かせてくれた。

 後日、はがきが届いた。S家のルーツが書かれていた。幕末から近代、先の太平洋戦争のことにも触れている。

 昭和20年3月9日深夜~10日未明、東京をB29が襲った。同じ日、平市街上空に現れた1機が、西部地区に焼夷弾の雨を降らせた。紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などで294軒が炎に包まれ、16人が死亡、8人が負傷した。S家も焼け落ちた。

 はがきにはこうもあった。「戦後は、無一物から再建して、この家も」祖父が建てた。家業は伯父が継いだが、その代で力尽きた。私の伯父は文学を愛したが、事業の人ではなかった――。
 
 伯父さんはこの家で亡くなった、と聞いたとき、私は安心した。家は死者が出て初めて、魂の宿る家になる。人に歴史があるように、家にも歴史がある。わが子・孫にもいつか「無量庵」の来歴を語って聞かせようと思う。

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