2019年2月18日月曜日

「100年の生き証人」

カミサンの親友の母親がきょう(2月18日)、満100歳の誕生日を迎えた。きのう、カミサンと自宅を訪ねて2時間ほど雑談した。そのひとこま――。「あなたのおかあさんはきれいだった。どうしてる?」「母は85歳で亡くなりました」「あら、若かったわね」。85歳で若いとは!
親友の母親とカミサンの母親は大正8(1919)年に生まれた。13歳で磐城高等女学校(現磐城桜が丘高校)に入学し、同級生になった。昭和18(1943)年生まれのカミサンと親友も、小・中・高校と一緒だった。二代続きの同級生の付き合いは、合算すると87年に及ぶ。

義母が亡くなってから、もう15年。自分の母親への思いも重ねて、カミサンが花束を持って親友の家を訪ねた。アッシー君を務めた。冒頭のようなやりとりがおもしろくて、女性たちの会話の合間に口をはさんだ。

「100年の生き証人」の話はめったに聞けるものではない。哲学者の内山節さんが東日本大震災の復興にからんで、「行政は何でも5年計画。目先の利益を追うから理念が生まれない。5年から100年に時間軸を延長すれば、“何をつくるか”から、“何を残すか”という計画にかわる」といっていた。「100年の時間軸」を思い出して、元ブンヤの血が騒いだ。

義母たちの100年を考える。関東大震災が起きたのは4歳のとき。義母は東京の下町で生まれた。震災前、磐城平の米屋の養女になった。東京にいたら死んでいたという。満洲事変~太平洋戦争は12~26歳のとき。東日本大震災のときには、義母は亡くなっていたが、親友の母親は92歳。最近までコーラスグループに所属して歌をうたっていたという。

親友の母親は双葉郡富岡町出身で、磐城高女へは朝6時10分の汽車に乗り、1時間10分をかけて通学した。だから、「授業中は眠くてね」。おちゃめなおばあさんだ。

100歳ともなれば老化はまぬがれない。が、同じ質問を繰り返すことはあっても、受け答えはしっかりしている。「自分の母親は平・南町の造り酒屋『山宗(やまそう)』の出なの」「銘柄は『たひら正宗』ですか」「いや、天に宅、『天宅』」。ほう、また宿題ができた。図書館のホームページを開いて、昔の地域新聞を調べる楽しみが増えた。

 そうそう、100歳の誕生日となれば、活字メディアが取材に来る。「何にもしてないのに新聞に載るのは恥ずかしいから、(県と市の担当者には取材を)断った」という。ならば、私がメディアになる。乙女のような100歳の女性がここにいる、ということを伝えたくて、写真も載せる。長生きすることも芸術のひとつだから。

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