先日、内郷学運営委員会が開かれた際、特別講座の講師の一人でもある運営委員から、内郷にも姥捨山があることを教えられた。炭鉱資料館の館主が詳しいという。
白水の山は高くても標高212メートルだ。地理院地図では名もない丘が連続している=写真。炭鉱資料館の裏山は、標高が126メートルほど。東西に延びた丘陵の先に国宝白水阿弥陀堂がある。館主がいう姥捨山はそのへんのどこか、らしい。
すぐ人里に戻ってこられるところではないか。元気な人間はそう考えてしまうが、体力が落ちた老人には、里山もまた家には戻れない場所、姥捨山だったにちがいない。
この話を聞いたときに、反射的に「山上がり」という言葉が思い浮かんだ。哲学者内山節さんの『「里」という思想』(新潮選書)と『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)に出てくる。山と人間の関係が濃密だったからこそ、姥捨山が生まれ、山上がりが可能だったのだろう。
群馬県上野村の、高度経済成長期の前の話だという。今でいう自己破産に追い込まれた一家が山にこもり、「適当な森のなかに小屋をつくる。(略)上野村の山には、天然のクリの木がいっぱいあったし、ドングリもアク抜きすれば結構おいしく食べることができた(略)。茸(きのこ)や山菜、薬草の知識も豊富だった」から、「一銭のお金もなくても、一年や二年はどうにでもなった」。
「その間に、働きに行ける者は町に出稼ぎに出て、まとまったお金を持って村に帰り、借金を返す。そのとき、山に上がって暮らしていた家族も戻ってきて、以前の里の暮らしを回復する」。山の実りが豊かで、人間も山をよく知り、山のものを活用するウデをもっていたからこその一時的な離脱だった。共同体としても一家を応援したという。
歴史的には、過酷な課税に対する農民の抵抗手段として「山上がり」(逃散=ちょうさん=の一形態)があった。要求が通れば、農民は山を下りた。
姥捨山の話に戻る。姥捨山伝説は山深い里の話と思っていたが、平地の里山にもあった。驚いた。年をとった親を子が捨てる――。少子・高齢社会が進み、地域に独り暮らしの老人が多くなった今、姥捨山伝説は現代の民話になった、そんなふうに考えてみたりする。
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