2022年2月7日月曜日

アウシュヴィッツの少年

           
 これは、本のそで(カバー折り返し部分)に書かれている要約をそのまま紹介するのが一番だ。

 ――1943年6月、ナチス支配下のベルリン。ユダヤ人少年トーマス・ジーヴは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。わずか13歳だった彼は、3つの収容所を経て生き延び、22カ月後ついに解放の日を迎える。そして、記憶が新たなうちにすべてを伝えようと、絵筆をとった。――

 トーマス・ジーヴ/品川亮訳『アウシュヴィッツを描いた少年――僕は銃と鉄条網に囲まれて育った』(ハーパーコリンズ・ジャパン、2022年)を、図書館から借りて読んだ。

 アウシュヴィッツといえば「ガス室」を連想するが、それだけではなかった。強制労働の収容所もあった。少年はそこへ送られた。

 少年は木炭とセメント袋の切れ端を見つけ、目の前で起きていることを描いては寝棚の藁袋に隠した。ところが突然、アウシュヴィッツからよそへ移される。スケッチ画はそのまま残された。

そして、終戦。少年は紙切れに描いた記憶をもとに、再び絵を描く。文章も書いた。やがてそれらは2回、本になる。彼はホロコーストの語り部にもなった。さらに近年、旧著をベースに改訂・増補版が出た。本書はその日本語訳だ。

シベリアでも同じような体験をした日本人がいる。本を読みながら、いわき市の画家広沢栄太郎を思い出していた。以下は主に、平成21(2009)年6月に書いた拙ブログの抜粋。

――先の戦争で、広沢は現役兵として昭和11(1936)年、応召兵としては同16年、朝鮮羅南にある部隊に入隊し、同20年8月の敗戦と同時にソ連に抑留された。
 昭和23(1948)年に復員するとすぐ2カ月をかけて、2年半余の強制収容所生活を50枚の画文集にまとめた。

「シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録」である。収容所では鉛筆で小さなザラ紙に数百枚をかきためた。それを、帰国集結地ナホトカの手前で焼き捨てた。没収されるのが分かっていたからだった。過酷な労働と粗末な食事、仲間の衰弱死、望郷……。そんな現実が生々しく描かれている。

広沢は昭和40年代後半、「草野美術ホール」で個展を開いた。シベリア抑留の画文集も展示された。記者になりたてだった私は、取材でかかわったのを機に画文集出版の裏方を務めた。広沢栄太郎著『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』はそうしてできた。――

強制収容所の本質はなにか。体験者の詩人石原吉郎が書き留めている。詩人の友人が亡くなる前、強制収容所の取調官に対して発した最後の言葉だという。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

平成28(2016)年8月、仲間4人でサハリン(樺太)を旅し、シベリアへ渡ってウラジオストクとナホトカを巡った。

 共通の同級生がざっと半世紀前、船で横浜からナホトカへ渡り、シベリア鉄道を利用して北欧のスウェーデンに向かい、そのまま住み着いた。

私はガイドに案内されながら、ナホトカの港で船から降り立った同級生だけでなく、日本へ帰る画家の幻影を追った。

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