2022年2月27日日曜日

『小名浜浄光院誌』

共著者の急死、東日本大震災の津波被害、原発事故避難。およそ25年をかけて1冊の本ができあがるまでには、失意と困難を乗り超えて再始動する意志の力と周囲の協力があった。

いわき地域学會の先輩で歴史研究家の小野一雄さん(小名浜)から、『小名浜浄光院誌』の恵贈に預かった=写真。ほぼ週刊誌サイズの大きさで2段組み、ざっと390ページという大冊だ。分量ももちろんだが、内容の濃さに感服した。

小野さんと、盟友の故佐藤孝徳さん(江名)の共著だ。本ができるまでの経緯が「あとがき」につづられる。

江戸期前半、磐城平藩を治めた内藤家に松尾芭蕉のパトロンでもあり、俳人としても知られた貴顕がいる。内藤露沾。江戸から磐城に下った露沾は領内の小名浜を巡遊し、「小名浜八景」を詠んだ。

中に「虎山の晩鐘」がある。今も続く浄光院の「時の鐘」をうたっている。平成9(1997)年、住職の熱意と佐藤・小野さんの尽力で境内に「小名浜八景碑」が建立された。

住職は「寺史」へも強い思いを持っていた。しかし、寺は戊辰戦争のあおりで焼失、文献史料は期待できない。従来の寺史とは異なるものをつくろう――2人が役割を分担し、調査・執筆を始めた。

ところが、平成22(2010)年5月、佐藤さんが急死する。翌23年3月には東日本大震災が発生し、小野さんの家も床上まで津波被害を受けた。地震で書棚から落下した本や史料が泥まみれになった。そこへ原発事故が起きる。しばらくは首都圏への避難を余儀なくされた。

「寺史」の執筆の気力は萎(な)え、中断の日が続いた。とはいえ、小野さんの家は古くからの寺の檀家だ。いくら思い屈しても放っておくわけにはいかない。逃げられない。思い直してあらためて向かい合うまでには、なお時間がかかったという。

草稿状態で残された佐藤さんの原稿を読み解いてパソコンに入力する協力者がいた。全体の文章のチェックや史料との校合を引き受ける協力者もいた。

アフターファイブに佐藤さんの仕事を手伝ったことがある。『昔あったんだっち――磐城七浜昔ばなし300話』(いわき地域学會、1987年)と、『浄土宗名越派檀林専称寺史』(1995年)の文章整理と校正を担当した。

それで、ハマの昔話といわき地方の浄土宗の歴史的展開を知ることができた。校正の役得というよりは学恩そのものだった。

小野さんと佐藤さんの友情も近くで見てきた。佐藤さんの三回忌には、小野さんが共著『ふるさといわきの味あれこれ』(非売品)を霊前にささげた。

 平成8(1996)年、朝日新聞福島版に佐藤、小野さんが「ふるさとの味 いわきから」を連載した。それを小野さんが冊子にした。

平成7年に市が刊行した『いわき市伝統郷土食調査報告書』は、佐藤さんが中心になって調査をし、小野さんも執筆している。私は編集・校正を担当した。こうしたチームプレーのなかでいわきのあれこれを学んだ。

 『小名浜浄光院誌』は一つの寺の歴史にとどまらない。地域とのかかわりの中で、広く宗教や文化、生活誌として読むことができる。そして、もう一つ。本ができるまでの友情の物語も秘めている。そのことをかみしめる。 

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