全国紙の正月企画の一環で、霊長類学者山極寿一さんが「時間」について語っていた。人類は「自然の時間」のなかで過ごしてきた。ところが、産業革命以後、時間を管理して効率的に使う思想が生まれ、人々は「工業的な時間」に駆り立てられるようになった――。
「工業的な時間」という言葉に触れて、哲学者内山節さんがいう「時計の時間」を思い出した。本棚から『時間についての十二章――哲学における時間の問題」(岩波書店、1993年)を引っ張り出して読み返した。
この本をはじめ、内山さんの著作から、時間は通り過ぎるだけではない、回帰=循環して蓄積することも知った。
なかでも、ふだん暮らす街場と、日曜日だけ身を置く山里の時間の違いについて考えるきっかけになった。
自然の中では、時間は循環している。落葉樹でいえば、春に木の芽が吹き、夏に葉を広げ、秋に実をつけて、冬には葉を落とす=写真。1年ごとにこれを繰り返す。つまり、時間は年輪となって木の内部に蓄積される。
自然の世界ではそこに生きるものたちが、そこにある環境に合わせて自分の時間を生きている。動物の時間、植物の時間、菌類の時間……。
ふだんは忘れているのに、フィールド(現場)に立つと、その時どきの記憶がよみがえる。車での道すがら、「今年も川岸でヤブツバキが咲き出した」「去年もここに咲いていた」
森の中ではもっと鮮明だ。「この林床にタマゴタケが出た」「この倒木にヒラタケが生えていた」「この木の根元にマイタケが出た」。フィールドで得た「情報」も、過ぎ去らずに体に蓄積されている。時間は一つではないのだ。
「山里の回帰する時間とは、異なるスケールをもつ様々な循環する時間の総合としてつくられ、この時間世界のなかに村人の暮らしがあった」と内山さんは言う。
異なるスケールの時間とは、たとえば一日の巡りや一年の季節の移り行き、15~20年ごとの薪炭林の伐採などのことである。季節の移り行きのなかには当然、山菜取りやキノコ狩り、あるいは狩猟などが組み込まれている。
ところが街場では、「時計の時間」に基づいて経済が動いている。通勤・通学者は夏も冬も、春も秋も、時計が決めた時間に家を出なくてはならない。現役のころは、私もそうだった。
内山さんは問いかける。「なぜ私たちは時計の時間にしたがって成長し、時計の時間にしばられながら就職し、定年を迎え、時計の時間に計算されて死ななければならないのか」
それは現代社会が時計の時間に基づいてつくられているからだとして、それ以外の「存在の方法」を見つけ出そうではないかと呼びかける。
内山さんは山里の人々の暮らしにその希望を見いだす。内山さん自身、群馬県上野村と東京の2拠点生活を続けている。
霊長類学者は「自分の時間を手放し、自然な時間に入ると、ほっとして幸せを感じます。僕にとってはゴリラと過ごす時間です」という。
私も、日曜日に渓谷の隠居へ行くと、自分を取り戻したように感じる。そのとき、時計の時間は意識から消えている。
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