古巣のいわき民報に、「夕刊発磐城蘭土紀行」というタイトルでコラムを連載するようになって、2年8カ月がたつ。
ネットにアップしているブログ「磐城蘭土紀行」を、いわき民報の判断で取捨選択して転載する――。コロナ禍でさまざまな催しが中止・延期され、紙面を組み立てるのが厳しくなった。いわば「穴埋め」用として始まった企画だ。
ありがたいことに、いろいろと反応がある。現役のころは、電話での苦情やおしかりが多かった。今は旧知の読者から、電話や手紙・はがきが届く。年賀状にもコラムに言及するものがあった。
最近、また「横のつながり」を実感した。平の開業医だった故後藤全久さんのガラス絵を取り上げたら、京都に住む娘さんからいわき民報経由で手紙が届いた。ふるさとの友人から記事の「写メール」が届き、うれしくて胸が熱くなったという。
手紙には私も知っている人たちの名前があった。後藤さんは平成2(1990)年秋、釈迦の十大弟子の慟哭を描いたガラス絵の画集『花と仏と人間と』を刊行している。コラムでは、図書館から画集を借りて作品と初めて向き合ったことにも触れた。
その作品はご両親が眠る寺に寄進されたという。その寺の住職はカミサンの同級生でもある。私も知っている。横のつながりを頼って、いつかは本物のガラス絵と対面しようと思っている。
年が明けて少したった日、全国紙の「テレビ時評」でドキュメンタリー監督大島新さんが「教養の『入口』として」と題して、NHKの「欲望の資本主義」シリーズを取り上げていた。
その日の午前11時から、時評で紹介した番組が再放送された。文章に刺激されて番組を見た。
「テレビ番組はそれ自体が一つの作品であるが、私は同時にテレビには『入口のメディア』としての役割もあると感じている」。番組で紹介されていた知の巨人たちの著作や思想に触れてみようと思った視聴者もいただろう、と筆者は言う。
入り口、つまりきっかけ。そう、メディアは「考える」ヒントやきっかけになる。同時に、私が経験したような横のつながりに結び付くという意味では、メディア、特に地域紙は「出口のメディア」、つまりはコミュニティペーパーでもあるのではないか。
「夕刊発――」の1月11日付で「ナラ枯れ木伐採」が載ると、旧知の県議氏から電話がかかってきた。
コラムの趣旨は、夏井川渓谷の隠居へ行くのに県道小野四倉線を利用する。両岸はナラ枯れ被害が目立つ。路上への落枝・倒木を気にしているナラ枯れの木が県道沿いに4本ある。そのうちの1本が暮れに伐採された。不安が一つ解消された、というものだった。
県議氏の電話は「いわき浪江線の方は2本切ってもらった、小野四倉線の方も」ということだったろう。
ロックシェッドの近くにあるナラ枯れ木は腐朽が進んで幹にキノコがびっしり生えている=写真。そのことも、コラムでは触れた。一日も早く不安が解消されれば、と思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿