2023年1月21日土曜日

この版画は本物か

                             
 夏井川渓谷の隠居には、金庫や貴重品は置いていない。空き巣に入られたときには、雨戸の内側のガラス戸が割られたが、それ以外の被害はなかった。

若いときに知り合った画家の絵などが何点かある。それらは手つかずのままだった。台所の壁と居間の出窓に木口木版画の小品が飾ってある。

版画家柄澤斎さんが手がけた「肖像」シリーズの版画だ。フランスの科学哲学者ガストン・バシュラール、童話のアンデルセンで、どちらも若いころにのめりこんだ。

バシュラールは詩的想像力、なかでも大気や大地、火、水などの根源的なイメージの分析と研究で知られる。

手元にどんな本があるか、チェックした。訳者と出版社を省略して、タイトルだけを並べる。『新しい科学的精神』『瞬間と持続』『ロートレアモン』『夢みる権利』『水と夢――物質の想像力についての試論』の5冊があった。

ほかに、『火の精神分析』や『大地と意志の夢想』『空間の詩学』などがあったはずだが……。どこかにまぎれこんだか、だれかに貸したかしたのだろう。

もう50年も、40年も前の話だから、記憶は定かではない。本の中身も難解で、頭に入ったとはいえない。が、詩的イメージの勉強という意味では、食い下がって読み続けた印象が強い。

先日、群青色の海の美しさに触発されて、フランスの詩人アンリ・ミショーを思い出して散文詩に触れた。その流れで、若いころに読んだヌーボー・ロマン(アンチ・ロマン)のフィリップ・ソレルスや詩論のバシュラールの顔が思い浮かんだ。

先日、隠居に飾ってあるバシュラールの肖像=写真=を見て、「あれっ」と思った。ネットにある肖像と顔の向きが逆ではないか。偽物? 唐突にそんな疑問がわいた。

柄澤版画を入手した経緯は、14年前、拙ブログに書いた。それを要約して再掲する。――渓谷に、食事のできる店があった。今はない。この店は旅館であり、銭湯であり、食堂であり、雑貨屋であり、「55円ショップ」であり、家具のリサイクルショップでもあった。

一言でいえば、俗悪、まがい物を意味する「キッチュ」に近い世界。室内が徹底して大衆路線で彩られていた。質より量。小より大。少々値の張るラーメンがそうだった。食べきれない。窓の棚や壁に沿って、ゆで卵などの無料サービスコーナーがあった。その数がまたすごい。つい、ゆで卵に手が出た。

唯一、高価な雑貨として壁に絵をかけて売っていた。ぶったまげた。値段は伏せるが、それなりに評価されている知人の小品と思われるものがあった。有名版画家の作品もあった。本物だ。まるで土産品扱い。「偽物じゃないの?」。カミサンが言うのを制して、売り値を半分にまけさせて木版画を買った――。

ミショーを思い出したあと、ネットで初めて柄澤作品をじっくり見た。バシュラールは顔が右向きだ。隠居の作品は顔が左を向いている。「うーん」とうなるしかなかった。

カミサンが言っていたように、隠居の版画は偽物か。いや、一種の「だまし絵」の延長で、逆向きの作品もつくったか。なんとも狐につままれたような感じでいる。

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