2019年9月12日木曜日

旧オフサイトセンター解体

 きのう(9月11日)は、東日本大震災・原発事故から8年6カ月(アメリカの同時多発テロ事件から18年)の日だった。県紙の福島民報は社会面で、大熊町の旧原子力災害対策センター(オフサイトセンター)の解体工事が10日に始まったことを伝えていた=写真下1。
「原発事故直後、周辺の放射線量が上昇して十分な役目を果たせず、発生4日後に県庁への撤退を余儀なくされた」(同紙)、なんともお粗末な施設だった。

NHKも朝、「なつぞら」が始まる前の福島ローカルで、「オフサイトセンター解体が問うもの」を放送した。

インタビューに答えたのは1F立地町の大熊・双葉町のうち、当時、大熊町役場幹部職員だった、福島高専陸上競技部の後輩だ=写真下2。「情報自体は非常に錯綜していた」「選択の幅も何も示されずに自分たちで動かざるをえなかった」。要するに、町には正確な情報がなにも入ってこなかった。これが「原発安全神話」の実態だった。
彼とは震災1年後にいわきで会っている。2012年5月、大熊町民を対象に、いわき市文化センターで政府主催の説明会が開かれた。まだ現職だった後輩が来ているにちがいない。道路向かいの美術館に行く前、文化センターに入ると、大ホール入り口付近にいた。

黙って近づき、ハグする代わりに左手で背中をポンポンたたいた。後輩も同じようにした。「今、どこにいる」「会津です」「家族は?」「関東圏に」「バラバラか」。胸中を察するには、それで十分だった。

そのころも、被災・避難住民は国・県・市町村の対応の遅さに腹を立てていた。不信感さえ抱いていた。基礎自治体である市町村の職員は住民に罵声を浴びせられても、住民と向き合い、話し合わないといけなかった。自分たちも被災者だが、公務員ゆえに町と町民の現在と未来に責任を負わないといけない。その意味では忍耐・忍従の1年余だった。

その後輩も、やがて職場を去る時期を迎える。2013年5月初旬、定年退職あいさつの封書が届いた。3・11がなければ、あいさつ状は公務員人生を全うした安堵の文面になったことだろう。が、世界史に例を見ない原発震災に見舞われたまちの、責任者のひとりとしての苦渋がにじみでていた。

「県内はもとより日本全国に影響を与え、大変なご迷惑をお掛けしたこと、今も継続中であることに重ねてお詫びいたします」。今後は母親が避難している首都圏に仮住まいをし、不定期ながら、復興に向けた道筋をつけるためにまちの手伝いをしていく、とあった。

 後輩は退職後、事故検証の取材を受けてメディアに登場することもあった。2014年4月。共同通信が「全電源喪失の記憶――証言福島第一原発/第2章 1号機爆発」を配信した。福島民報と福島民友新聞が連載した。4月24日付の10回目に、原発担当課長(当時)としての証言が載った。

震災翌日の3月12日午後3時半。全町民の避難がほぼ完了し、残っていた役場の職員も避難することになって、課長である後輩が車に乗り込み、役場を出ようとしたとき、1号機の建屋が爆発した。「原子炉が止まりさえすれば、何とかなると思っていた」後輩の悔しさ、無念さが伝わってきた。

きのうの後輩のインタビュー放送を見ながら、謝らなければならない人間はほかにいる――そのことをあらためて胸に刻んだ。

0 件のコメント: