2019年9月7日土曜日

粥塚伯正詩集『婚姻』

 この半年、どっぷり「詩の沼」につかっていた。20代から付き合いのある粥塚伯正(みちまさ)クン(平)が詩集を出したい、ついては――というので、入力・編集・校正を引き受けた。
 これまでに『乱球』(1982年)『幻影の庭から』(1993年)の2冊の詩集を出し、1995年には10編の詩を集めた「水棲類」で福島県文学賞詩の部正賞を受賞している。

「水棲類」から24年。製本された詩集としては3冊目の『婚姻』が、娘さんの誕生日の8月11日、発刊された=写真。彼が思い描く婚姻とは「詩と詩人との婚姻」であって、それを「夢みつつ、ようやく、今、詩集『婚姻』を結ぶことができた」(あとがき)。

『婚姻』は17篇の詩からなる。校正段階で作品の削除や追加、順番の変更があり、そのつどパソコンを操作しては、印刷所の担当者にデータを取りに来てもらった。印刷所の担当者は、実は私のせがれで、小さいときから粥塚クンを知っている。その意味では“営業”を越えて、“チーム”として詩集づくりをすることができた。

 私も22歳のとき、最初で最後の詩集『受胎前後』を自費出版した。それ以来、ほぼ半世紀ぶりに詩集の原稿入力から発刊までの工程にかかわった。私は詩と詩人の「婚姻」どころか、「赤子」のレベルで詩を離れ、記者稼業にのめりこむなかでコラムにはまった。今もその延長でブログを書いている。

 詩を書かないではいられなかった粥塚クンから声がかかり、原稿を入力する過程で、あらためて彼の詩の特徴に触れた。半分は粥塚クンになりきった感覚でいうと、彼は朗読を想定して詩を書く。その意味では、コミュニケーションよりもバイブレーション(共振)に重点を置く。言葉のリズム、言葉と言葉のぶつかり合いから発する火花を、読み手は感知することになる。

それとは別に、詩人辻征夫(故人)にも通じるような“軽み”と諧謔もまた、彼の詩の特質である。例えば、

踏切

 たましいも踏切で
 立ち止まるのかしら
 そのとき わたしは
 振り向きもせず
 たましいの手をとって
 こちらがわに
 渡してあげるのかしら
 そしてしだいに
 むこうがわへとふたり
消えてゆくのかしら

 原発震災に材を取った詩「ぼくは今日もいわきで生きている」は、2011年3月11日直後の日々を生きた市民の気持ちを代弁する。

ああ深呼吸がしたい!
肺をおおきくふくらまし
青空を深く
吸いこみたい

粥塚クンの詩から、忘れていた現実を思い出す。森のなかでは、私は今も深呼吸を控えている。

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